単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

当ブログは、反スピリチュアル、反オカルト健康法を掲げています

 当ブログは、反スピリチュアル、反オカルト健康法を掲げている。これからも身近でなにかあるたびに書くと思う。なので、なぜ俺がそうなってしまったかについて書いておきたい。

 主な理由は二つある。

・過去に身内が被害にあった

・身内が被害にあいそう

 

 過去に被害にあった内容を箇条書き。これらは、俺が小学生から高校生にかけて起こったこと。

・高額なエスパーシール

・高額な謎のオブジェ

・高額な視力矯正器具

・高額な浄水器訪問販売(これについて)

・超高額な数珠

・高額な占い

・超高額な人生相談

・高額な札

 

 俺が記憶しているのはこれくらい。おそらくまだまだあるはず。訪問販売や視力矯正器具は、ただ金の問題だから当時の俺には関係なかった。エスパーシールはたまに目が合って気持ち悪かった。しかし、占いや人生相談は、母の教育方針に決定的な影響を与えてしまった。幸いなことに、オカルト健康法は、母の親戚に医療従事者が多かったのもあり、玄関をまたぐことがなかった。

 とはいえ、これは過去の話。ただ俺が突っかかる理由にはなっていると思う。

 そして、現在、姉の周りではスピリチュアルやオカルト健康法の誘いが多い。姉がそうしたいのならば勝手にすればいいだけなので関与するつもりはなかった。が、姉には子供がいて、俺はその甥っ子と仲が良いからそこに被害が及ばないように介入するようになった。それは本当にやめたほうがいいよ、とはっきりと言う。姉には「健康やスピリチュアルに関するなにかの集まりや本をおすすめされたときは、とりあえず俺に聞いてくれ」と言い聞かして、もうだいぶ前から俺というフィルターを通してもらっている。過去に出来事があり、それはおかしいとなってからそのようになった。 

 具体的な名前を出さないが、本当に色々なあれやこれへの誘いがあって唖然とする。大体は「非常に金がかかる」ので門前払いにできる。いいかもしんないけど、そんな大金をはたいてまでではないよね、と。健康法は標準医療の範疇内ならばあとは好み。食事は極端な栄養の偏りがなさそうならばあとは好み。そうではないときは慎重に。もしくはやめとけ。という感じの助言になる。

 日常なのだ。俺の日常ではないが。身内の日常では、高額なスピリチュアルと、うさん臭いオカルト健康法が人の口から口へと闊歩している。 

 だから、俺にしては語気が強めにこの手の話題については書いてしまう。そのためにわざわざ本を読んだり、松永和紀のネット記事を読み漁ったりもする。 

 正直、身内にやってこなったらたいして興味すらなかっただろう。陰謀論は面白いが、スピリチュアルは面白くない。健康法なんてのもまるで興味もない。

 でも身近にやってくるから、ヤバそうなのを排除するために俺は躍起になって言ったりLINEしたりする。ついでにブログも書く。ヤバそうかどうかの根拠は、もっぱらが俺にとっての「常識的な判断」である。その常識は、俺より頭が良く勉強しつづけてきた人たちの本。そういう人たちに信頼されている人の本による。俺にとっての常識的が誰かにとっては非常識なのは言うまでもない。どっちが正しいとか正しくないとかの話は俺には難しくてできない。ただ、高い金を払って龍神に拝んだり、すべての炭水化物と発酵食品を禁止したりすることに賛成できないから、このときばかりは俺の常識を振りかざすことになる。

 そりゃあ、身近な人にはハッピーになってもらいたい。甥っ子に関してはまだ子どもだから特にそう思う。でもあんたたちの言うことに従ってもハッピーになるとはどうしても思えない。そういう理由で、俺は日常でもブログでも、反スピリチュアル、反オカルト健康法を掲げている。俺が常識とかいうこれまで苦しめられてきたものに頼ってまで、それはやめたほうがいいと意見を押しつけるのだ。正義感に燃えているとか、小馬鹿にしたいとか、そういうことで決してはない。

 特に書いていて楽しいわけでもないから、ブログで「あいつらさあ」みたいなことを書く機会がなければ、それが一番いいに決まっているのだ。でも、中々そうはならなさそうで、なんか俺含めてみんな不安でいっぱいでしんどいんだなあと思った次第。

カビとか有害物質とかデトックスとかさあ

 目次のような何か。

 ・健康にならない健康本

 ・科学的とは

 ・常識的な判断とは

 

 姉からこのようなLINEがきた。

 「知り合いから本を勧められたんだけど、これどう思う? その知り合いは本の影響でお米と調味料しか取ってないみたい」

 その本がKindle Unlimitedの対象になっていて無料なのでとりあえず読んでみた。本によると、普段の食事はカビがやばくて有害物質だらけ。そのせいで、このような症状や病気になってしまいます。(ここ、一ページにわたって肩こりから自閉症まで様々なものがリストアップされる)そういうのがもう科学的に分かっているのです。体験談もあります。だから私たちはデトックスをしなければなりません。そのおすすめの商品がこちら。

 そのようなことが書かれていた。昔から本屋で平積みにされているよくあるやつ。最近はカビが流行っているのかと思った。で、返信した。

 「何冊か読んでみたけど、この著者はけっこう濃いね。書かれていることを忠実に実行しようとすれば、抗菌作用があるにんにくとかハーブとしかそういう調味料の類しか食べられないよ。炭水化物はカビを増殖させるからだめだし、オーガニック食品や新鮮な野菜もカビや有害物質だらけでよくない、発酵食品なんて絶対にダメらしい。同じ著者の本でも、ある本では健康に良いとされているのが別の本ではよくないと書かれているから、いっそのこと食事という行為をNGリストに入れればいいのにって感じ。その知り合いは、たぶん不安を煽られすぎてもうどうしようもなくなって、そういう偏った食生活になってしまったと思う。カビや有害物質よりも栄養の偏りの方が健康によくないっていう常識的な判断ができなくなってるのは心配」

 俺はそう返信して、しばらくしてから俺が常識的な判断という言葉を使ったことにおどろいた。なにせ俺は常識的な判断ができないし、常識的な人間でもないし。だから常識という言葉と距離を置くようにしている。常識的って言葉を普通に使用したのは小学生以来だとおもう。俺には常識という言葉はあまりになじまない。

 「常識的な判断」という言葉はよくなかったなと思った。なにせ、この手の健康本は科学の装いをすることで常識を介入をさせないから厄介なのに。「常識ではそうかもしれませんが、科学的には違います」という感じで。

 常識的な判断はともかく、科学的な判断ってことならば学がない俺にも分かりやすい。科学は業界内で承認された手続きによって確からしさが決まる。最近は、主に医学や心理学の分野で、あんまりこれまでの実験に確からしさがなかったと手続きに則って追試したところ判明し、それは再現性の危機とか呼ばれている。『生命科学クライシス―新薬開発の危ない現場』とかまさにそういう本でよかった。

 この手の健康本でお決まりなのが、ホメオパシー(具体的な商品はレメディともいう)を推奨していることだ。ホメオパシーに関しては小阪井敏晶の『神の亡霊』という本にでてきた説明が分かりやすい。その説明を簡単にまとめると、ホメオパシーの商品の説明通りに希釈しているならば有効成分は商品に存在していない。存在していないが、有効成分を「記憶」しているという。それならば水道水も同じ理屈で「記憶」している。ホメオパシーと水道水の違いは科学の埒外にのみ発生している。そしてさらに、ホメオパシーの発端となった実験はすでに追試によって否定されている。フランスではホメオパシーに保険適用されるが、それは保険費の負担を避けるためでしかない。というようになる。とはいえホメオパシーは効果がないというわけではない。有効成分を希釈したかどうかに関係ない砂糖玉でも同じことがいえるが、プラシーボ効果としてなら効果があるといっていい。科学的に。二重盲検ランダム化比較試験的に。

 また、例の健康本では、カビや有害物質の危険性を大げさなほどに喧伝していた。しかし、俺がもっとも重要と信じて疑わない量的問題を取り上げていない。その癖に、一般的な商品にまず含まれることがないくらい大量に摂取したときの作用機序を懇切丁寧に書く。しかし、常識的に考えれば、その作用機序があったところで、じっさいに健康に良いとか悪いとか主張するならば摂取量(や含有量)こそが問題ではないか。と思う。何もかも、薬にも毒にもなるとかいう話だ。しかしその問題については巧妙に迂回されている。だから本ではNGリストにいろんな食品を羅列するなんて大胆なことができる。「納豆やチーズの発酵食品を食べると腸内のカビが増えてさまざまな症状(一ページを埋めるほどの)を引き起こしてしまう可能性があります!」と書かれても、俺としては「それはどれくらい食べたら、どれくらいの影響が出るという話なんですか?あなたがいう科学的には」としか思わない。 

 というか、納豆を「食べ過ぎ」て健康に悪影響があるときの量がどれくらいになるかは、そもそも科学で証明するのは原理的にできないだろう。科学という手続きでは。極端な話、毒の致死量ですら科学的に正確な値ではないとされている。だからもう、厚生労働省が注意喚起する必要がないと判断する程度の、食品に極微量ほど含まれているカビとか有害物質(ホメオパシーみたい)とかは、どうやったら健康に被害を与えているとそう堂々と主張できるんだとおもう。ある物質がどのように健康被害を与える作用機序の話と、実際に、あまりにごく微量のその物質が含まれている食品をどれだけ摂取すれば健康被害が起こすかという量が絡む話の間にある、あまりに深くて人間には見通せない溝がなかったことにされている。

 そもそもタバコと肺がんですらおそらく相関関係があるだろう、としか科学的には言えないのだ。もしかりに、ニコチンを欲する遺伝子が肺がんを引き起こしやすい遺伝子と同一だったという媒体項が発見されたならば、少しだけ近づくことができるが、それ以上の媒体項が出てくればそれすらも見せかけの因果関係になる。だから日常的な食事なんてそれこそ膨大な変数がある以上、科学的にエビデンスレベルが高いとされる二重盲検ランダム化比較試験は難しいし、そもそもそういうのは倫理的に許されていない。小阪井敏晶の言葉を借りていえばそれは「人に閉ざされている」。

 その本に従って、あれはやばいこれもやばいとなってしまうと、人はもう何も食べられなくなる。だって量的な問題ではないから。なんかヤバいから、食べないようにするしかない。さらに、ホメオパシーみたいに希釈されてこそ威力が発揮される記憶されるとかなると、もうよく分からない。中間がないのだ。そのような本を読む人はうっすらとした不安があり、だからこそ本を手に取ってしまって、さらに不安を煽られてしまう。栄養の偏りよりも、何かしらの物質が含まれているのが不安になり、極端な食生活になってしまう。あんまりいじわるするな!と思う。

 この量的問題を雑に例えるならば、鼻炎薬のレスタミンコーワや咳止め薬のコンタックSTを大量に摂取すると閉眼幻覚が発生するが、適量を使用したときにその副作用の報告はないが、この事実をもってして「あれは幻覚剤だ!やめろ!」と判断してしまうようなものだ。 

 姉の周りにいる母親は、なにやら個性的な健康法をやっている人がそこそこいるという話を聞いている。冷蔵庫マザーの時代からおなじみの話なのだろう。子育てに苦労している母親は心配事が多く、その立場のせいか、変な健康本を頼らなざるえない状況に追い込まれてしまいがちなのだろう。ほんとうに、母親という立場は大変だと思う。特に出産という神秘的現象が絡むと、もうほんとスピリチュアルからなにやらと色々とあるようだ。健康のために本を読み健康を害してしまう、なんてのはどこでもある話なのだろう。(そして、そうなったのは本に書いてあることをちゃんと実行していないからという自己批判に繋がり、終わりはない)

 俺にだって、そういう「常識的な判断」ができていないことが数多くある。俺もべつに学があるわけでないから、健康の分野でもきっと色々とあるのだろう。『世にも危険な医療の世界史』を読んでいたら、有名な四体液説とか瀉血とか水銀万能説とか、数十年前はビートジェネレーションと呼ばれる若者たちが〈オルゴン・ボックス〉とかいうよく分からん箱にはいってオルゴンパワーを溜めていたという話があって、ほんと常識的な判断って何だろうねと思ってしまう。四体液説とか、だいぶ長いこと常識だったわけだから。

 常識的な判断って難しい。俺は、この言葉を言われる側の人間だからあまり気にしたことがなかった。いざ使ってみたら言葉の薄弱さに驚いた。常識で人を説得することはできるのか。「なんとなく分かるだろ」が分からない俺はもう今後なるべく使わないようにしたい。

 「うつ病」という病気はよく知られるようになった。しかし、人によってその認識は大きく異なる。うつ病は甘え。うつ病は製薬会社のマーケティングによって過剰喧伝されただけの詐病うつ病は風邪。うつ病は心の病。うつ病は脳の経伝達物質の均衡が崩れることで生じる脳の病気。これらのうちどれが「常識的な」捉え方なのか、俺はさっぱり分からない。俺が読むような本では、脳の病気=モノアミン仮説が主流ではある。これが発達障害となると、賢そうな人たちの間でも統一的な見解はまったくない。本の数だけオリジナルの説明モデルがある。『〈自閉症学〉のすすめ』という本では十八の分野で「こういうことじゃないの?」と様々な仮説で説明されてるくらいだ。

 本を読めば読むほど思うのが、俺が思っているよりはるかに多くの物事が「人に閉ざされている」。もしくは、ある物理学の本でいうならば「ぼけやている」。よく分からない、難しい、そういう思いが増していく。だから俺の声が小さくなる。常識的に判断しておかしいと思ってしまうスピリチュアルや健康本についても何も言えなくなる。

 そもそもが「常識的な判断」という言葉がおかしいのだろう。常識的に判断すれば。できないし、しないけど。

dnimmind.hatenablog.com

  

『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるのか』を読んだ

 

 『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるのか』を読んだ。以前に感想を書いた『「死にたい」に現場で向き合う---自殺予防の最前線』と同じシリーズ。「助けて」と「死にたい」は生きづらさの表裏のようなもので、どちらの本でも支援のあり方や現場となる場所は似通ったものになる。

 SOSを出さない人、SOSを出せない人はあらゆる現場にいる。本書で登場する現場は、性犯罪被害、発達障害支援、訪問介護、被災地、ホームレス、貧困、薬物依存症など。そこで支援者が、それぞれどのような具体的な取り組みを行っているか、それぞれどのように「助けて」という声に寄り添うか、そういった経験やノウハウなどが紹介される。 

 「助けて」とSOSを発することができないと福祉や行政に繋がることもできない、という支援構造の現状を「申請主義」という言葉で表現していた。

貧困、格差、排除が連鎖し、複合的な困難を抱えている人ほど声をあげづらく孤立しがちななかで、このような観点から既存のシステム自体を問い直し、申請主義に傾きがちな支援構造への対抗を考え続けていくことは常に必要であろう。

 申請主義に傾きがちな支援構造では、対象者の援助希求能力の乏しさ、福祉行政の支援サービスについての知識、申請書を書くための言語能力など、申請以前に横たわる問題が前景化する。本には出てこないが、悪名高い生活保護の水際作戦も申請させないために行われている。また、申請の障害になるのは、孤立や自己責任論などの影響もあるだろう。この病巣は根深いものに思える。

 そもそも「助けて」とは人に言いにくい。

そもそも、誰かに助けを求めるという行為は無防備かつ危険であり、時に屈辱的だ。問題の本質は、カッターナイフや化学物質という「物」にのみ依存し、「人」に依存できないこと、より正確にいえば、安心して「人」に依存できないことにあるのだ。

 支援に繋がったあとでも、そう簡単に事は運ばない。陥穽が待ち受けている。

安心して「人」に依存できない人たちは、「この人、私のことをはじめて理解してくれた」と思わず、感激するような依存対象と出会った瞬間に、「この人を失望させたくない、嫌われたくない」という不安から「バッド・ニュース」が口にできなくなり、相手が喜びそうな「グッド・ニュース」ばかりを話すようになる。つまり、本音がいえなくなるのだ。

 弱者を救おう。ただし、善良で、努力を欠かさず、社会的要因でそうなってしまったから自己責任を免責してもいいと認められた人々だけ。そういう意見が現にあり、それが人に「依存」するから遠ざけている。

 第二章が「このままじゃまずいけど、変わりたくない」という題で、クラエントに対する援助の進め方についてのノウハウが紹介されていた。

むしろ変化しない権利や自由を認めることによって、変化が可能になることが多い。援助者は常識や意見を押しつけず、クライエントが自分自身で考えるように導いていくことが大切である。(クライエントの抵抗は、援助者が対応の仕方を変えたほうがよいというサインである)

[略]

また、すぐにクライエントが行動を変えることが困難な場合は、先を急がず、クライエントと歩調を合わせ、まずは相談を継続してもらえるような信頼関係の構築に焦点を当てて、援助を行うことも有用である。

[略]

実際に情報提供や助言を行う際は、押し付けにならないように配慮するとともに、最終的な判断はクライエント自身が行うことを強調したほうがいい。

 これ、どの現場でも、援助の心構えとして当てはまるのではなかろうか。同じ編集者の本の『「死にたい」に現場で向き合う---自殺予防の最前線』で語られていた支援の要諦に通ずるものがある。それは、受容的、共感的態度を徹底すること。信頼関係の構築に注力すること。そして、関係性を継続すること。すべてはそこから。俺は以前に金を払って受けたカウセンリングで常識や意見を押し付けられたことがある。あのカウセンラーはこの二章の文章をプリントアウトして壁に貼って毎日復唱したほうがいい。本当に。

 三章の「楽になってはならないという呪い」で紹介されている、「心理的逆転」という用語は過去の自分に思い当たる節があった。

心理的逆転という用語は、その状態が、自己利益に向かうという人の通常の動機づけの状態を逆転させ、敗北や不利益へと向かう行動をとらせるように見えるため名付けられた。

[略]

時間の経過とともに、この恐れと悲しみと恥は、親による放棄のすべての責任が、その子ども自身、そして大人へと成長した本人自身にあるのだとする有毒な内的批判家を生み出し、いずれはその内的批判家がクライエント自身の最悪の敵となって、複雑性PTSDの奥深くに沈潜することになる。

 内的批判家いる。俺の頭の中にもいて、おそらくそいつが生まれたのは、母が俺に一日三回、十年間で一万九百五十六回(『惑星のさみだれ』のエピソードと同じく)くらい、「あなたが私の思うようにならなかったら私は死ぬ」と言われたせいだろう。それにしてもトラウマ。やれオープンダイアローグだの、やれ第三世代認知行動療法だの、そういう本ばかりを読むようになったから、トラウマ解消的心理療法をひさしぶりに目にした。この伝統的なやり方がなによりも有効な現場というのがある。

 話を戻して、教育課程に援助希求能力を高める指導を取りいれることに、異論を唱える章がいくつかあった。そのような試みは、自己責任論を強化しないかという観点での異論だ。そりゃあ、自己責任論は強化されるよなあ、まったく。と思ってしまった。そもそもの現状、救われるべき弱者とそうでない弱者を峻別しようとする風潮がある。その救われるべき社会的弱者の項目に、しっかりと自分の言葉で問題を提示して援助を希求すること、が増えたところでなんら不思議ではない。そういう人たちに変われという。しかし「変化を強く求めてくるような相手とは、親密な関係を続けることが難しい」という。ここでは「助けて」と言えないからといって、じゃあ「助けて」と言えるように教育すればいい、なんて安易な解決はない。

 この本で紹介されている支援現場の最前線での取り組みやノウハウは実にすばらしい。現場ごとの対応の仕方の違いがそれぞれの支援者によって書かれている。発達障害のドタキャン率の高さ、児童虐待家庭への介入の仕方、エイズ患者の相互扶助的コミュニティなど、例を挙げればキリがないほど豊富である。最前線の現場でこのような熟慮された丁寧な支援が行われているならば、これからの日本の未来は明るいのだろうと思ってしまいそうなくらい。

 しかしその一方で、真逆の言説がインターネットでは渦巻いている。ネット空間を跋扈する自己責任論に対抗するためには、本を読んだり人に頼ったりするのが助力になるのだろうが、そういう人にこそそのための社会的資源がないという。だからといって「助けて」と口にするのは本当に難しい。「助けて」と人に頼るために「助けて」と人に頼らなければならない、と問題は積み重なっていく。

 この分野の専門家の中にこの人がいるのはありがたいというような人物が俺は何人か思い当たる。ひきこもりの分野では、斎藤環。障害の分野では、熊谷晋一郎。そして、この本の編集者と記載されている松本俊彦。彼は薬物依存症や自傷/自殺の分野ですばらしい本を書きつづけている。支援者ではないし、どちらかといえば支援される側の俺は、こういう本を読んでいると気持ちが少し楽になる。そう捨てたものじゃないのかも。俺はもうちょっと肩の力を抜いて生きてもいいかもしれないと思う。とはいえ「助けて」をめぐる問題は難しい。俺はただ難しいと書くしかない。俺ははたしてそのとき「助けて」と言えることができるのか。「死にたい」と「助けて」と言えることは援助希求能力という一つの能力なのは間違いない。

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