単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌

 岸政彦の『断片的なものの社会学』で以下のような文章があった。

何も特別な価値のない自分というものと、ずっと付き合って生きていかなければならないのである。

かけがえのない自分、というきれいごとを歌った歌よりも、くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌がもしあれば、ぜひ聞いてみたい。

『断片的なものの社会学

 くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ、それが人生だよ、という歌。人の数だけ答えがありそうな問いだが、俺にとってはSyrup16gの『実弾(Nothing's gonna syrup us now)』が当てはまる。

 ここで歌に求められている要素を抜きだすと、

・何も特別のない価値もない自分、くだらない自分と何とか折り合いをつける

・かけがえのない自分というきれいごとではない

・それが人生

 まさしく『実弾(Nothing's gonna syrup us now)』がそれらの要素を満たしている曲だ。サビの「セ・ラ・ヴィ」はフランス語の慣用句で「これが人生」という意味がある。「これ」と「それ」の指示語の違いこそあれどこの文脈では特に意味に差はない。 

 歌詞に「これが人生」と「それが人生だよ」に重なるフレーズが出てくるし、引用した「くだらない自分というものと何とか折り合いをつけなければならないよ」というのも、「泣いてやろうぜこの不確かさに/すべてを受け入れる力/それが勇気だ Right!」に通じるものがある。

 また「退屈な毎日に殺されていく」「やっかいなことばかりさ/やる気は失せてくばかりさ」「この世界に飽きているんだ」という歌詞も、かえがえのなさを含意してはいない。とはいえ「くだらない自分」でもない。あくまで退屈なのは世界であり、自分がどうなのかということを迂回することで、勇気を振り絞っているから、ここは少し異なる。

 これらの歌詞を小気味よいシャッフルビートにノって聞いていると、前向きでも後ろ向きでもない、中動態の「これが人生」という言葉をすんなり受けいれることができる。そして、世界に飽きつつ、面白くなってきた、今更の手遅れの人生をそのままでやっていく。

 きわめつけは「苦しまぎれで進もう/他にやることないじゃん」からのラストの「さあ今更」。今更、もう手遅れかもしれないけれど、それでいいそのままでいいと折り合いをつけて、今更でいいからやれと歌う。

 『実弾(Nothing's gonna syrup us now)』は、「これが人生」の「これ」が指し示すしょうもなくて退屈でくだらないことを認め、そのうえで苦し紛れだったり泣いたりしながらでいいから受けいれ折り合いをつけて、さいごは他にやることないくらいのノリで「これが人生」と言葉とともに先に進んでいく。

 あらためて聞きなおすと、この曲のすばらしさは、「やられる前にやれ、実弾握りしめて」から「やられる前にやれ実弾握りしめてちゃ撃てない」に変わるところかもしれない。はじめに決意する。そして、決意をしたのはいいが行動に移さないことを、もしくは決意のあまりに力が入りすぎて強張っていることを、やんわりと指摘する。その力の抜け具合がいいのだ。この曲は。ノリが軽い。どれだけ事態が深刻だろうとも、「すべてを受け入れる力 それが勇気だRight!!」でいいのだ。

 この曲をストレートに解釈すれば、五十嵐隆の決意表明のような、年間オレのような、私的要素が色濃い曲ではある。すべての歌詞が、他者に呼びかけているのではなく、自分に言い聞かせているようでもあって、それは別にいいけどまあ死んだら完成するし気張りすぎずにやっていこう、そういう気分になれる。

 そんな気分になったところでまあどうにもなるわけでもないけど、どうにもならないなら気持ちくらいは不貞腐れてもやる気アピールしたい。

思わず親戚の顔になる 相田裕の『1518! イチゴーイチハチ!』を読み返す

 

 あまりに外が暑くて出かける予定を取り消し、GUNSLINGER GIRLで有名な相田裕の『1518! イチゴーイチハチ!』を読み返していた。ざっくりいえば、真面目に生徒会活動をやっている高校生たちの青春群像劇。暴力もお色気シーンも一切でてこないタイプの清く青いジョブナイルもの。健全で善人しかいない。ストーリーは、怪我で甲子園の夢を諦めてしまわないといけなくなった公志朗が、生徒会活動を通じて新しい居場所を見つける。その中で季節のイベントや、このマンガならではの本格的な生徒会活動や出会いや別れがあって、一つだけ年を重ねる。簡単にいえば地味。良くいえば堅実な物語。

 このマンガは、なぜだか、元野球少年である公志朗の親戚の立場になって読んでしまう。気がつくと、登場キャラクターの身内になって見守っている気分になる。俺はそういう読み方はあまりしないのだが、このマンガだけは何度読みかえしてもそうなってしまう。

 うっすらと漫画の構成がその理由だろうとは分かる。ケガで野球を諦めて諦めずにしんどい思いをしている公志朗を皆が見守る、というのが序盤の展開の山場になる。「あいつをなんとかしてやろう」と皆が一致団結する。その雰囲気は、そのまま作品全体に通底しているもので、作中で公志朗以外のキャラクターが見守るだけでなく、俺(読者)もまた遠くから見守っている気分にさせられる。その気分をより強調させるのが、登場キャラクターが泣くシーンのほとんどが公志朗の前向きな変化を目にしたことがキッカケになるという、いわばドラマチックなシーンが公志朗の成長過程に集約されていることだろう。少なくとも五巻まではそういう感じ。そのせいで、野球の話がでてくると、俺は「おい、公志朗の前だぞ! あまり辛い思いをさせるようなことをするな!」とか思ってしまう。

 一巻の終わりがこういう風になっているし。

 感想は「よかった…本当によかった」というもので、これはべつに面白いという感想ではなさそうだ。素晴らしくはある。読み返しても、終盤のラブコメディと生徒会長選挙編以外はそう面白いとは感じなかった。でも、身内が人の成長を見守るのって面白いとか面白くないとかではないから、こういう感想になってしまっても別におかしくないとすら思ってしまう。

 終盤はめちゃくちゃ面白い。成長した(心の安寧を取りもどし前向きになった)公志朗が物語を引っ張っていくし、恋愛感情に気づいてからの展開の滑らかさは微笑ましかった。最終巻では、公志朗だけでなく、それに合わせてヒロインの丸山幸も成長を見せつけ、愛する者同士で決着を付けるという熱い展開になる。温かい物語だけれど、別に温いわけでもないのだ。

 「地味」をリアリティある描写、「あまり面白くない」を派手なドラマは起こらないが堅実なストーリー展開、と言い換えることはできる。そうだとも思う。ただ全体としては、俺はそれとは異なる評価軸で、この作品を「良い」「素晴らしい」「青春物語の傑作の一つ」と判断しているのだ。実際に取材を重ねたという組織図まで用意されて詳細に描写される生徒会活動は確かにリアリティがある。序盤では、リアリティを積みあげるより物語をもっと動かしてくれと思ってしまう。

 まあ、終盤ではその蓄積のおかげで、めっちゃ面白いから必要な描写だったのは違いない。全巻まで読んでほしい作品だけど、正直なところ一巻や二巻あたりで挫折してもおかしくない。堅実さが退屈さとなればそうなってしても。

 と思ったけど、真面目にやっている生徒会活動は面白い。ひとつひとつの活動を着実にこなしていく、任された仕事をちゃんと完了する、そういう喜びや充実感を丁寧すぎるくらい描写している。その活動の中でゆっくりと、当の公志朗がやりがいを感じ新たな目標を見つけるわけだし。生徒総会について丹寧に掘り下げて物語に落としこんでいるような漫画はそうそうないだろう。「アイス大作戦」とか、みんなが幸せになるためのすばらしい取り組みだった。それを実現するために自分たちで試行錯誤した過程も含めて。

 

 全体的な感想をいえば、こういうふわふわしたものになるが、もう何度も読み返しているだから、俺がかなり好きな作品だというのは間違いない。青春群像劇ではあるが、「まずはじめに片思いがあった」というような恋愛ありきのストーリーではなく、メインが生徒会活動のなかで公志朗の回復を見守るという、作品全体に流れる温かさが好きなのかもしれない。あと丸山幸に恋のライバルらしきキャラが登場するが、別にそうではなく、二人が結ばれてからそのキャラが公志朗のことを好きになるという、もどかしさというかドラマのなさというか。序盤で、丸山幸が公志朗のことを「がっかりしたけど一緒に歩きたいのは今の彼」と発言して、数か月後には「やっぱりかっこいい」と心変わりするあたり、このマンガの絶妙な良さが詰まっていると思う。  

 ちなみに、作中でもっとも好きなのが公志朗の父親が感極まるシーン。

 彼がこのときどのような表情をしているかは分からない。ただ安堵や喜びで泣いているのだろうとは察することができる。そういえば、この作品でキャラクターが泣くときは、悲しくて泣いていることは少なく、そのほとんどが嬉しかったり安心したりして泣いているシーンばっかだった。それこそ『1518! イチゴーイチハチ!』がどういう漫画かを物語っているとふと思った。

『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』を読む

 

 脳という分野に限定されるが、バイオハッキングやトランスヒューマンといった身体改造技術の話だ。攻殻機動隊への道筋だ。これがおもしろくないわけがない。「人間の能力はどこまで拡張できるのか」を是非とも教えて欲しい。

 最初に、俺がもっとも興味深く読んだうつ病の話したい。バイオメーカ―(診断のために使われる生体の指標)が確立されていない精神疾患をどう診断するのかというのは、精神科医の本でもよく出てくる悩みである。結局は、「職人芸」にならざるえないというのが一般的な答えだった。そこで、人工知能ビッグデータを利用して精神疾患のバイオメーターを見つけようとする新たな学問分野の「計算論的精神医学」が登場したという。精神疾患界隈では、このような古典的医学モデルは進展がないゆえに話題にならなくなってきているようだが、今後の技術発展によっては主流になってもおかしくない。いずれ、ビッグデータ精神障害者等級が決定される未来や、日々の精神状態によって服薬する向精神薬が配られる未来を想像すると、なにやら心躍ってくる。

 

 話を戻して、俺は以前は脳科学の本をよく読んでいた。人間はたいしたことがない、ということを知りたいために最新の脳科学の知見を知るために読んでいたものだった。ある時期まで、池谷裕二の著書はそれこそすべて読んでいた。ある時期に再現性の危機という話を知り、過去の著書で紹介されていた実験が追試によって再現性がないと知ってからは、急に関心がなくなった。

 だから『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』も話半分で読んでいる。

 とはいえ、やはりこういう話は面白い。本によると、脳から情報を読み取るのは物理的なテクノロジーに依存する制約があり、いまだ発展途上。ハードの問題。一方で、読み取った情報を解析する人工知能は革新進化が起きている。ソフトの問題。

 ディープランニングの強みを一言で言うと、「それまでは人間が選んでいた特徴量をデータから自動的に学習する」ということです。ディープランニングが登場する以前は、画像の分類に必要な情報を人間が選択していました。この「分類に必要な情報」のことを、人口の知能の分野では「特徴量」と呼びます。

 第一章の人工知能の話題はすでに『人工知能は人間を超えるか』で読んでいたので目新しさはなかった。面白いのは、第二章から。

 最新結果集。

・脳活動を人工知能で読み取ることで、その人が考えていることを直接文章で翻訳できるようになったという研究。

・目が見えなくなってしまった人の視力を取りもどすために、人工眼球が開発され、人工的な視神経も開発中。

・失明した人の脳に電極を埋め込み、外界の情報を直接脳に送る研究。これはすでに、ArgusⅡという人工網膜システムはアメリカで許可が下り、世界中に350人の利用者がいる。

    攻殻機動隊のバトーさんみたいなイメージ図。

・視覚野をまるで線をなぞるように電気刺激することで、脳で文字を「読む」ことができたという研究

・バーチャルなネズミをコンピューター上でシュミレートする、ネズミを使って行われている脳研究の代替できる可能性 (円城塔の『リスを実装する』だ!)

・中国の「人工知能に医師国家試験を合格させる」プロジェクトは二千十七年時点ですでに成功している

・出された指示に対してプログラミング言語で回答するGPT-3の登場

 とまあ、最前線での研究について、どこまで可能かどこからが研究中かなどが詳しく書かれていた。

 やはり哲学というのは大事なんだ、とこの章を読んで分かった。よく言われることだが、科学と哲学の密接な関係性がここにも出てくる。たとえば、意識や意味といったものを脳科学で研究するときに、意識や意味はこういうものだと定義し、はじめに仮説(実験においては公理)を措定しなければならない。そのときの基盤になるのが、哲学の言葉だ。それがないと始まらない。「意味の理解というのは、世界と言語との対応表を学習ことである」という定義が引用されるが、俺が読んだことがある現代思想の本ではこの定義は一般的ではない。

 あとTwitter買収どうこうで話題になっていたイーロン・マスクの名前がよく出てくる。彼はこの分野に資金援助しているようで、その企業のNeruralinkでは「脳と人工知能を接続することで超人類になる」と宣言し、実際に革新的なデバイスを作成しているらしい。

 面白く期待させるような研究が数多く紹介されるが、しかし、まだまだ発展途上と言わざるえない状況でもある。それは依然として「高い精度で脳情報の読み取りと書き込み」を行う技術がない。分野の研究を大きく進める計測技術は日進月歩の歩みなってしまうということだ。とはいえ、十数年前までは脳トレの川島教授がfMRIで測定した脳の血流量でどうこう言っていたのに比べれば、明らかに進歩しているのは違いない。   

 人間は大したことがないという話が好きなので、「オッカムのカミソリという考え方は人間の認知限界から生まれているのでは」、「大量の変数を用いて世界をモデル化する高次元科学の時代が来るのでは」という話は気に入った。

 BMIを用いた神経・精神疾患の治療という「脳活動からその人の状態を判定し、その結果に応じて脳を刺激して症状を緩和する」ってのはまさにグレッグ・イーガンの『しあわせの理由』や伊藤計劃の『ハーモニー』みがある。まあ、その過渡期では俺のような貧乏人だけが精神疾患になり、スティグマに悩まされる社会が待ち受けているだろう……。

 夢がある。しかし、まだまだ厳しい。人工知能の発展は目まぐるしい。一方で、測定技術は依然として脳の全貌を明らかにするにはあまりに頼りなく足止めを食らっている。イーロン・マスクは頑張っている。そういう感じだった。以上。