「快感回路」から読みとる薬物依存症のきびしさについて
依存症治療に熱心に取りくんでいる芸能人が逮捕されたニュースをみると、依存症がよくいわれる「やめつづける」ことは本当に難しい、と思う。
特に「快感回路」を読んでからというもの、動物由来に備わっている報酬回路の脆弱性や、依存が進行したときに脳に生じる永続的な変化を知ってその思いは高まった。
で、今回書くのは、デヴィット・J・リンドンの「快感回路」を参考に、動物由来の快楽欲求志向と依存症のメガニズムについて。本作ではニューロンの作用機序について詳しく説明されているが、記事では省き、実験から得られた結論のみを引用している。
生命本能を凌駕する報酬回路
依存症のきびしい現実についてのニュースを見るたびに思いだすのが、「快感回路」に紹介されている、脳に電極を指して自分自身の脳を刺激できるに改造されたラットの末路だ。
自分の脳を刺激しているオスは、近くに発情期のメスがいても無視したし、レバーにたどり着くまでに足に電気ショックを受ける場所があっても、そこを何度でも踏み越えてレバーのところまで行った。子どもを産んだばかりのメスのラットは、赤ん坊を放置して、レバーを押しつづけた。
この実験は有名で薬物乱用教室でも教材になっている。行動神経科学の分野で画期的だったのは、それまで行動の動機づけ懲罰によって行われているといったモデル―つまりは「アメはいらずムチさえあればいい」という主流のモデル―を否定したこと。実験のラットによっては餓死するまでレバーを押しつづけた個体もいるように、それはまた、快楽は強力な行動の動機付けになりうる、と判明したことである。しかも、これらの実験は人間にも適用され似た結果を出したという。もちろん倫理的観点からすぐに中止されたようだが。
で、さらに動物の快楽欲求について俺が興味深いとおもったのが、野生の動物たちはどのように向精神薬(報酬回路を刺激する物質)と付きあっているかについての話。様々な動物のケースが「快感回路」では紹介されている。
例えば、鳥やゾウやサルは自然発酵してアルコールが混じった果実を熱心に探し、イノシシやヤマアラシが幻覚作用を持つイボガの木を食べることが報告されている。さらに、エチオピア高原のヤギは野生のコーヒーからカフェインを摂取して快感を味わっている。トナカイにいたっては幻覚作用をもつベニテングタケを丸のみし、その作用を残した尿を奪い合うケースすらあるようだ。
薬理作用がある果実は栄養価が高いだけではという反論に対しては、これらの動物は栄養がほとんど無に等しいものでも摂取していると分かり、動物たちは我々のように好んで向精神作用を求めているという。
酩酊は、人間の専売特許ではなかった。
とまあ、電極ラットや酩酊動物の例からもわかるように、生物には酩酊への脆弱性が備わっているし、その動機付けの強力さは条件次第では生命本能すら凌駕してしまうことがある。
依存による長期増強という現象
依存症が進行する過程をまとめると、
連続摂取→薬物耐性→快楽を得るために必要量の増加・不使用時に起こる不快からの渇望→嗜好が不足感へ変化、の流れをたどる。
その後、「ひとたび依存症の進行が始まったら、快感は抑えられ、不足感が表面化していく」と、際限ない悪循環のループに囚われてしまう。
快楽を得るために使用した薬物が、不快から逃れるための用法になっていく様子は、人間の懐柔政策として起用された「アメとむち」が薬物単体で成立しているようだ。また、依存症者は快楽をほかの経験、セックス、おいしい食事、運動などでも感じられなくなってしまうというから、作中の「報酬回路が乗っ取られてしまう」という表現は誇張でもなんでもない。
ここまででも十分にきびしい事実だが、しかし、俺が依存症の過酷さをなにより思い知ったのは以下に引用する長期増強の現象があるからだ。
近年の研究から得られた知見のうち最も重要な点は、依存症が進んだ段階で、渇望を生じて再発を繰りかえしているような場合、そこに結びついているのは記憶、つまり薬物を摂取した経験の強固で持続的な記憶だということだ。依存性の薬物は快感回路を乗っ取り、天然の報酬以上に回路を活性化することで、連合のネットワークと結びついた記憶を深く根付かせる。この記憶が後に、薬物に関係する外的なきっかけと心的な状態を引き金として激しく活性化し、感情中枢とのつながりを作る。
このように、薬物依存が進行すると、脳の神経回路そのものが永続的に書き換えられ、その影響は感情、記憶などの広範囲に渡ってしまうという。そのとき、日常のなかでふと私たちがあのときの楽しかった記憶を思いだすがように、依存症者はささいなキッカケ(ほんとうにささいな)によって薬物への渇望を惹起されてしまうのだ。
だから薬物公表ガイドラインで提唱されている「「白い粉」や「注射器」といったイメージカットを用いないこと」は切実な訴えであるのだろう。なにせ、たった一度のラプス(再使用)が起きてしまえば、それによる後悔や罪悪感などのストレスによってリプラス(連続使用)に発展するまでの距離は近い。
これだけではない。さらに薬物依存症者には、「我慢したあとのビールがうまい」の超強化版のような「感化」と呼ばれる、ある程度の期間薬物を止めていたあとでごく少量を摂取すると最初に感じたよりも激しい快感を覚える現象がある。
と、ここまで紹介したように、いちど乗っ取られた報酬回路は薬物の再来を用意周到に待ちつづけており、薬物依存治療とはその欲求と戦いつづけ、さらに全戦全勝(しかし大抵のケースでは数回はリプスに陥ってしまうらしいが)を目指す果てしない試みに他ならない。
俺がこの事実から痛感するのは、専門家がいうように、薬物依存症というのは確かにそれが「病気」であることだ。それは責任能力をめぐる社会的な文脈の「病気」ではなくて、身体の不具合としての意味としての「病気」として。
結論
ここまでは「快感回路」から依存症の過酷さを説明する内容を紹介してきた。これらをひっくるめると、つまりは「依存症は病気である」とするモデルを主張するものだ。まあだからといって、本でも注意書きされているように「反社会的な選択や行動の責任から解放してやる」ことではない。発病の論理と回復の論理は異なる。
さて、発病の論理ばかり書いていたので、上記に関係する回復の論理について少しだけ補足していく。
松本俊彦が「薬物依存に陥らせるのは、薬の作用というより「孤立」」の記事で、電極ラットの研究と比較する形で、前向きな結論を得られるラットの研究を紹介している。
それはラットパークと呼ばれる研究で、檻の中に入れられたラットが孤独さや快適さの環境の違いによって薬物への依存度はどう変わってくるのか、というもの。その結論はこうだ。
つまり、ネズミをモルヒネに耽溺させるのは、モルヒネという依存性薬物の存在ではなく、孤独で、自由のきかない窮屈な環境――すなわち「孤立」――である、ということです。
最初に紹介した餓死するまで快感を追い求めつづけるラットは脳に電極を刺されて直接刺激できるケースだからどうしようもないと思われるが、それよりかはまだ穏便な薬物依存に関するラットパークの研究ではまだ希望が見いだせるだろう。
そもそもが依存というのは連続使用の先に起こることで、薬に手を出したものすべてが依存症に陥るような作用はない。あくまで使いつづけたときの問題と「快感回路」にも丁寧に書かれているし、松本俊彦はじっさいに家族やコミュニティの存在のおかげで依存症にならなかったケースを体験して紹介している。
以上をふまえて、薬物依存症の治療は「薬ではなくて人に依存する」というように、依存症のメカニズムの前では個人の意志では抵抗することが難しいことを認め、支援してくれるコミュニティに密接に関わり人とつながりつづけることで、薬物への渇望をやめつづけることを目指す方針のようだ。完治はない以上、繋がりつづけることで辞めつづけること、「今日の我慢」を毎日積みかさねていくしかないようだ。
最後に俺が愛するsyrup16gの歌詞を紹介しておわりたい。
未来は誰かの手だ
俺は持ってない「愛と理非道」
快感回路---なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか (河出文庫)
- 作者: デイヴィッド・J・リンデン,岩坂彰
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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