単行のカナリア

感じて想する

俺の文章は「日本のすばらしいロックの歌詞」のサンプリングに過ぎない

 じつのところ、俺の文章はすべて、今まで書かれた文章もこれから書かれる文章もすべて、「日本のすばらしいロックの歌詞」のサンプリングに過ぎない。

 一見そうみえない文章も、日本のすばらしいロックを聞きつづけた俺のなかで「日本のすばらしいロックの歌詞」が文になり、文が文節になり、単語に断片化され、それらすべてが俺の文章の構成単位になっている。俺の存在のなかに「日本のすばらしいロックの歌詞」に散在している。

 困ったことは、俺の文章は「日本のすばらしいロックの歌詞」のサンプリングなのに、それは意識してやっているわけではないってことだ。

 なぜならば、俺は歌詞の最小行為の単語(ときには音や歌唱によって歌詞に癒着した情感の素粒子を含む)によって文章を組みたているようだが、どの歌詞を選択されるかは直観によって行われているから。直観は、意識外からやってくる。

 直観について引用する。

 

うまい文章を書く究極の秘訣、みたいなのは、実はあると思うんです。あります。だけどその方法は、その文章が書かれる目的などによって、一文ごと に、たとえば5000くらいの方法のうちのひとつを選ぶしかない。そんな作業だと思うわけです。だとしたら、実質は「ない」んですよ、そんなもん。だっ て、センテンスが10になったら、もう組み合わせ的に天文学的数字じゃないですか。
 だとしたら人は、その瞬間その瞬間に、直感による選択を続けるしかないんです。そうでないと「あ」と書くのも無理です。だから俺は、わかりやすい文章の上達法とかはあんまり使えないと思ってます。この「直感」を磨くことのほうが、短期的には迂遠であっても、長期的には便利なんじゃないかと。 そしてその方法っていうのが「参照事例をたくさん持つ」ということじゃないかと思ってるんです。つまり俺はこう言っています。パクれ、と。自分のいままで の「言語」に関する経験すべてを元ネタにしてパクれ、と言いたいわけです。

元記事はインターネットから永遠に消滅してしまったので引用リンクなし

 引用した「自分のいままで の「言語」に関する経験すべてを元ネタにしてパクれ」という言葉のなかの「経験」が、俺にとってはいままで聞いて読んで歌ってきた「日本のすばらしいロックの歌詞」に他ならないのだろう。

 

 これは過去と現在の文章だけではない。未来だってそう。

 俺はこれからも文章を書きつづけるかは分からないが、もし書いているならばそれはいままで聞いてきた「日本のすばらしいロックの歌詞」と、いつか聞かれることになる「日本のすばらしいロックの歌詞」のサンプリングに過ぎないのだろう。

 さらにいえば、こうしてブログに俺が文章を書くようになったのは日本のすばらしいロックを聞いてしまった後からだから、俺がブログに書いてきたすべての文章は「日本のすばらしいロックの歌詞」からできている、というわけ。

  

 して、いつの間にか「日本のすばらしいロックの歌詞」に俺の言葉は乗っ取られていた。

 あまりに強い力を持った歌詞の断片―それは声と楽器によって成立する力強さ―はかつての言葉そのものに浸食していく。その現象はときに明確に表れることがあり、たまにツイッターで歌詞のフレーズをそのまま書くやつがいいサンプルだ、例えばこのアカウントみたいに。

https://twitter.com/nuAXE16GtuHexA/status/1187748197273354240

 このような人間は、頭のなかは天文学的数字の「日本のすばらしいロックの歌詞」で大渋滞だし、そういう人間の書く文章は「日本のすばらしいロックの歌詞」のサンプリングに過ぎないと予想される。

 その末路はきっと、Twitterにたまにいる歌詞botかもしれない。あいつらはもう完全に「日本のすばらしいロックの歌詞」に乗っ取られてしまったから、もうそれ以外の言葉をつぶやくことができなくなってしまったのだ。俺だって他人事ではなく、いまだに日本のすばらしいロックを聞きつづけているから、歌詞botは未来の俺の姿だ。

 だとすると、このブログは俺が「日本のすばらしいロックの歌詞」に支配され、歌詞botになるまでのドキュメンタリーともいえる。それがどうして悲しいといえよう。「日本のすばらしいロックの歌詞」botの歌詞botならすばらしい未来が約束されているんだからさ。

 

 さて、そろそろ辛抱強い人ですら俺が使う「日本のすばらしいロック」の主語の大きさにいらだってきたかもしれない。しかしその主語を特定するのは難しい。大体、あのバンドやこのバンドの歌詞の断片と予測できることもあるが、なかには記憶が定かではない曲も多数そこには含まれている。

 バンド名と楽曲タイトルと歌詞をしっかり思いだせる曲の歌詞だけが「日本のすばらしいロックの歌詞」ではないのだ。なんか好きかもしれないとの出会いによって記憶の片隅に住み着き、またいつか会えるように祈りつづけている「日本のすばらしいロックの歌詞」だって頭の中にはあるわけだから。

  

 ようするに、俺の文章は「日本のすばらしいロックのサンプリングに過ぎない」というわけ。まあ説明が不十分なのは分かっているし、そもそも意味不明すぎて納得してもらえないかもしれないけれど、俺には確固たる直観があるからそう主張させてもらう。

  当然、この文章だってそうで、一切の例外はない。

 

 そこでだ。俺は思うんだが、なぜ「日本のすばらしいロックの歌詞」のサンプリングに過ぎない俺の文章は、あのすばらしい歌詞の欠片すらうかがえないのだろうか。

 おそらくそれは、俺という存在を経由してしまったせいで、決定的に損なわれてしまったものがあるからかもしれない。ガラスのコップと、割れたガラスのコップの破片を集めたものが違うものになってしまうように。きれいなきれいなガラスの破片で、俺はまったくべつのコップを作りあげている。それはまだすばらしいとはいえない。

 祈りをこめて、いまはまだ、と書くにとどめる。