単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

COCK ROACH『Mother』全曲感想

 全国1800人のcock roachファンの皆様こんばんは。この度、虫虫国家黒虫県蜚蠊市に新しく引っ越してきたものです。……ってのは、COCK ROACHの公式掲示板でみかけた『Mother』リリース告知文からの引用なのですが、はたして俺は1800人のうちの1人に名乗っていいのだろうかと悩む。赤き生命欲は所持していないし(久しぶりに確かめたら値下がりしていたので先ほど購入した)、無限マイナスは追っていたが博士と蟋蟀は追っていなかった。だから、住民票はあるが定住はしていないという感じなのだ。

 しかし、10以上前からCOCK ROACHのアルバムは聞きつづけてきたし、待望の新作『Mother』を聞いたら虜になったからファンに違いないだろう。なんといっても『Mother』はすばらしく、全曲感想を書くことにした。やたらと長いのと、あとリピートしつづけた後遺症で言語野の配列が狂ってしまい、よく分からない箇所も多々ありますが書いてる方も分かってない。

 『Mother』は公式サイトでの通販のみの販売になるようです。

cockroach.jp

 

1. 胎児の見る夢

 ティンパニ、弦楽器、コーラスといった荘厳なオーケストレーション。なにかたいへんなことが起きるのではないか、と予感させる熱量があり、徐々にボーカルもビートも高揚していくのがいい。瞼をこじ開けられるような感覚に陥る。

 そして高らかに始まりを告げられる。ただし、始まりといえども、生命が形づくられる以前の始まり。それは同時に、かつて終わってしまった過去の記憶や景色との決別でもある。ひとつの魂の始まりでもありひとつの魂の終わりでもあるから、つまりは輪廻が歌われている。

 ああ、これがCOCK ROACHだよなあ、とさっそく嬉しくなりつつ、新体制のメンバーによる表現手法の新しさと、これまでのキャリアの中で培ったアレンジメントのおかげで、表現される世界観のスケールが途方もないものになっている。

 そして言う、「さあ、生きなさい」と。 

 というか、最初の歌詞が「膣壁の洞窟の中 紫色の銀河に移る記憶断片」って、初っ端からCOCK ROACHが奏でる黒蟲世界に引きずりこまれちゃうよね。

 生は、ときに災厄でもありときに祝福でもあるけれど、いずれにせよ巨大な力によってはじまってしまう。背中を押す、暴力的なエネルギーの奔流を感じられる。こちらの意志を問わずに生かされ、万物の流転する営みに組みこまれてしまう、そんな感じで始まる。


2. Mother

 アルバムタイトルにもなった曲。胎児が生誕したあとの、赤子の曲。

 COCK ROACHといえば、顕微鏡と天体望遠鏡を交互に覗きこむように、ミクロとマクロのスケールを高速で伸縮させる。そのせいで、聞き手は「いま、ここ」にいる自分という存在が相対化され、現実感が希薄になり、気づいたときにはCOCK ROACHの歌のなかに連れていかれるって感覚があって、「Mother」ではそれが顕著に表れている。

 もちろんそれはサウンド面の効果もあり、ギターの単音がベースのハイフレット音に移り変わっていくさま、ビートを前面に打ち出して隙間を多くさせたメロディーがギターの轟音に染まっていくさま、そういうダイナミズムと歌詞が結託するからもうどうしようもない。この曲は、ハイフレットでコード感があるベースに耳を奪われる。静寂と轟音の切りかえしのなかで、孤独にメロディーを奏でるベースが優しい。

 「Mother」は万物の総じての母なるものと、命の母体になった母のふたつの意味が重ねられている。歌詞でいえば、「総てを閉じ込めた蒼く澄んだ眼」を持つ母と、「あなたがそっとやさしくかけてくれた布団のぬくもり」を感じさせる母といったように。

 現実から目を逸らすわけではなく、現実の彼方にある宇宙と母胎に目を向けることができ、その風景はそう悪くない、かもしれない。

 
3. 電脳双生児顕微鏡狂想曲

 これ、これだよ! イメージとサウンドが世界がごった煮されて混沌として沸騰している感じ! オリエンタルな曲調のなかで、硬質的なギターが闊達に刻まれて、瞬間瞬間で様相を変えつづけていく。メロコアっぽい曲調もあれば、スカっぽい曲調にもなっていくから、「どういう曲なの?」と聞かれて「いや、説明するの難しい」と答えざるえない。歌詞についてはことさら説明は難しく、「創造主/救世主のDNA鑑定してみよう」「人ならず神ならずお前は誰だ」とか発想からぶっ飛んでいる。

 で、「電脳双生児顕微鏡狂想曲」はついにはサイバースペース的世界観に接続されていく。ここにきてスケールを横に広げることで、COCK ROACHの表現の射程はさらに領域を広げていくのであった。一体どこまで連れていってくれるのか。

 気に入っている箇所は、スカっぽい曲調になる中盤の、「さあ奴隷達よ踊りなさい今夜も さあ分厚い肉と冷えたワイン」、「さあ奴隷達よ生きなさい今夜も さあ瞳の奥埋めこまれたチップの導きへ」のとこ。最後の晩餐と電脳世界が行き来し、どの時空でも奴隷を躍らせるって、なんというカルマだろうか。空をみれば光化学スモッグ、海をみればマイクロプラスチックの現世で、人間であることも生きる意味も分からないまま、俺たちは踊るしかないのだ。

 

4. ユリイカ

 かつてリリースされた曲のリメイク。持ってないので俺にとっては実質新曲。

 これまでのカオスさは和らぎ、分かりやすくいい曲である。COCK ROACHといえば、メロのブリッジミュート、サビの轟音ギターサウンドのスイッチによって、カタルシスを演出するといったイメージがあり、そのひとつの完成系のような仕上がり。ギターリフからすでに哀愁が漂ってて、それが曲を通してミニマルに反復されつづけることで快感をもたらす。

 が、やはり7分ほどの長尺のなかでに差し込まれる、中盤の展開は語るときに外せない。これまでの静謐を打ち破るかのように不協和音の単音が点滅し、崩壊し、そこからまたドラマチックな展開に進んでいく。

 いってみれば、ボーイミーツガールなんだろうけど、その相手が赤い翼の少女で舞台はロボット集団の間接音が夜に跋扈するあたり、やはりCOCK ROACHなのだ。 タイトルの「ユリイカ」は「見つけた」の意味があり、歌のなかでは「月の夜 君を探す」と旅路の途中ではあるが、きっと出会えるのだろうと予感させる。

5. 炎国

 「炎国」とは一体、どこの国が舞台になっているのだろうかと思う。王国、青い旗、火あぶりの刑でイメージが浮かんだあとに、故国の唄として「君が代」の国歌斉唱がはじまる。そもそもがCOCK ROACHの唄が一つの国、一つの視座に留まるわけがなかった。

 序盤、オルタナティグロックに接近している王道のバンドサウンドから、これまた曲調が自由変化していき振り回されてしまう。たおやかな童謡パートがあり、急転し、中盤のノイズまみれの崩壊間奏パート。そんでもって、アコースティックの調べによる国歌斉唱がはじまり。最後にはそれをかき消すシャウトになだれこむ、と情景がスライドしつづけていく。

 それはまるで国の歴史を俯瞰したような……と書こうと思ったが、俺は歴史に詳しくないのでやめておく。とにかく、「炎国」は故国の遍歴をたどるように巨大な流れに翻弄されてしまう感覚がたまらない。アカクイキマショウ。

 
6. 新進化論エレクトロニカルパレーダー

 東京ディズニーランドでこのエレクトニカルパレーダーが流れていたらじょじょに子どもたちが青ざめてしまいには泣いちゃうだろうな……とか思って聞いていた。

 タイトル通りに、従来の路線とは打って変わって、ハードコアテクノの要素を加味して狂騒的なビートが飛びだしている。といってもアポトーシスエバーミングといった物騒な言葉は健在で、そもそもパレードの主役は線虫から人間に進化するまでの過去の記憶ときているの、踊っているやつらはDNAの2本のポリヌクレオチド鎖や大脳辺縁系ニューロン群だろう。ビートのノリの良さだけを聞いてクラブでかかってそうな曲、とはけっしていえない。

 で、この斬新なアプローチに驚きつつ、そこから読経の展開と様変わりしてしまうのにもっと驚いた。踊りたくなるというかもはや這いずりまわりたくなるような曲だろう。

 そんでもって終盤でさらにフロアは熱狂し、掛け声のもとピークに達する。

 「君達は人間」 

 「我々は黒虫」

 のコール&レスポンスライブで聞きたいね。そんでもって、俺の体の奥底にあるDNAのポリヌクレオチド鎖でリズムをきざんで、大脳辺縁系にある神経線維の拳を突きあげたい。数十億年年にもわたる命の遍歴をたった一夜でたどりたい。We are human! 我々は黒虫! 

 「新進化論エレクトロニカルパレーダー」は、どう頭を振っても突拍子のない感想しかでてこない。クラゲの輝きと銀河に移行させたり、微生物と小宇宙を並列させたり、それでいてダンサンブルかつ読経があるわけで、俺は訳がわからないまま踊ってしまう。黒虫になってライブハウスの隅で踊りたい。


7. 海月

 狂騒の曲もあれば、ポップな曲だってある。「人は人を愛せるようにできていたんだ」の結論に至るまでの道のりを、月の代替物の海月のモチーフと、人間の触れあいにフォーカスを当てた鮮やかな風景で描いていく。突きぬけた派手さはないが、それゆえにイメージ喚起力に優れている。そして奇跡がある。

 俺は、バラードチックな曲で、メロディアスなベースラインが好みで、「海月」のベースはハイフレットを多用して柔らかな旋律を奏でている。これが海月ではなく月だったらならば、牧歌的なメロディーとまばゆい風景描写のおかげでど真ん中のポップスになりえたのだろうけど、月ではなくて海月なのだ。

 そのちょっとした違和感に引きずられて、心に引っかかりを残していく。だから何度も聞いてしまうのであった。

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https://www.youtube.com/watch?v=ok7UX3utzvI

 
8. 花と瓦礫

 なんといえばいいのだろうか。あまりに美しい景色の前で言葉を失ってしまうような。はじめて聞いたとき、ああ、これはもう……とおもわずため息がもれた。もうイントロのイノセントなピアノからすでに心を掴まれるのに、しだいに霧が晴れていくように弦楽器の儚げな旋律とギターの轟音が加わってしまって、最後に「こんな僕と一緒にいてくれて本当にありがとう」と歌われたらどうしようもなくなる。

 美しくそれでいて悲しくあり、COCK ROACHだからこその生と死の関りあいのなかの奇跡の一瞬をパッケージングしていて、ひとことでいえば名曲でそれ以上がむずかしい。

 なんだろうな。俺は人が死ぬ話が好きで、それはもういろいろな死を読んできたわけで、物語が死で区切られることに慣れすぎてしまった。「花と瓦礫」は死で区切ることはせず、生命停止後に腐って土に溶けるまでに残されたわずかな時間の思い出が描かれている。生命を有機的な活動を捉えるならば、死者は生命はないがまだ有機的な変化を繰りかえす。だから、腐る。「腐敗していく君の身体が土に溶けて春を告げる」と、COCK ROACHが生を万物の営みと捉えているように、かりそめの「おわり」ですら生命の有無ではなくて有機的な存在の有無にこそあるから、そのほつれがこの曲ではお別れの場面になる……と従来のテーマの延長線上であり、だからこその説得力がある。

 「今夜も灰色の雪が降ったなら君の冷たい身体はもっと冷たくなるね」とか、「もう二度と笑うはずない 君が笑った気がした」とか、安らかに歌われているのに悲哀の叫びのように聞こえてきて、胸が苦しくなる。抑制的であるからこその、切実さ。

 記憶が思い出に変わってしまう過程、死者が土に還っていくまでの短い道のり、それら儚い瞬間が、どうしようもなく悲しくまた美しい。どうしようもない。


9. Cosmo ballet

 「花と瓦礫」から間を置かずはじめる「Cosmo ballet」。今度は死者の魂が空に昇っていく瞬間に移っていく。

 「花と瓦礫」を聞いたあとのこの曲がアルバムで一番好きだったりする。音が、声が、シューゲイザー的轟音サウンドのなかに溶けてこんで渾然一体化していく。そこに、回帰のイメージが歌われて密接に絡みあって繋がり、はじまりとおわりが同時に進行しているような錯覚に陥る。さっきは「有機的な構成物が消滅していくときがお別れの場面」と書いたが、こうして魂は輪廻の新たな旅たちを迎えるわけで、万物の営みにきれいに線を引くことなどはできない。

 死を目の前にした弔意と悲歎をひっくるめて音にしたら、きっとこんな音になるのかもしれない。COCK ROACHは彼らの持つ世界観を曲という形に詰めこんでいて、それで「花と瓦礫」と「Cosmo ballet」はひとつの到達点ではないかとおもう。

 「ゆっくりと空に昇る この夜に一度だけ」と、輪廻が決定されているとしても、それぞれの生は一回性の体験であり、その死もまた個別性を持つ。死が終わりでないとしても、決定的に損なわれてしまうものがあるわけで、それは悲しいことにちがいない。

 
10. 青い砂に舞う君の髪

 それで、「青い砂に舞う君の髪」ではまた産声を上げるわけですよ。輪廻のなかで魂は流転していく。 シンプルにいい曲で、「命ある事 共に生きる事 総てを当たり前とせずに」、「生きよう。」とメッセージも掴みやすい。

 俺は日々「もう生きたくないなあ」と思っているけど、こうして「生きよう。」と万物の輪廻のスケールのなかで力強く歌われてしまうと、そうしないといけないという気になってくる。命を濁らせるのではなく、燃やすために澄ますために生を営んでいくということ、それがいかに難しいかを知っているからこそ耳を傾けて、本当にそうなのかと向きあわされてしまう。

 生、その万物との関わり合いのなかの奇跡の瞬間、有機的な営みと捉えれば、生はそれだけで美しい。そこに価値を見いだすこと、その価値をないがしろにしないこと。そういった意味での「生きよう。」。ただ俺がどれだけ生きていたくないからといって、それとは別の次元にある、万物の流転していく輪廻に組みこまれ、そこで生まれたひとつの生の奇跡(しかしその奇跡は億単位であるが)を無下にすることはできない。 

 正直、どう対峙すればいいか分からないままでいる。そもそもが輪廻は克服する対象としてあるけれど、COCK ROACHは所与の条件として認め、その営みに美しさを見いだす。それはまた生きることを継続する理由にもなりうる、と。 

 そこで、まんまとこの世界観に取りこまれてしまったことに気づく。


11. 死者の見る夢

 『Mother』は「胎児の見る夢」からはじまり、「死者の見る夢」でおわる。COCK ROACHはアルバムを通して聞く体験が大事だとおもっていて、それはアルバムの構成からすでにコンセプトが考えられているから。

 だから「死者の見る夢」の最後の、ピアノの伴奏をともに歌う「またどこかで逢いたいよ。」「またどこかで生きたいよ。」に、どれだけ切実な思いが込められているのかが分かる。「またどこか」が指している場所は、現世のみではなく来世でもありでもあり、つまりは祈りに他ならない。

 胎児と死者といえば、彼岸の世界での、死者は言う「どうか良い人生を」赤ん坊が答える「どうかいい来世を」の挨拶をおもいだした。このアルバムでは「さあ生きなさい。」からはじまり、「またどこかで生きたいよ。」でおわる。人を生命単位でみたときの一生の風景みたいなもので、その風景には過去や未来も映りこんでいる。

  俺が「またどこかで逢いたいよ。」を耳にしたとき、「なんて美しいのだろう」と思って、それが最初と最後に浮かんだ感想だった。 

まとめ

 俺は最高傑作という言葉に慎重で、それは比較の言葉だから10年ぐらい保証されていると見込まないと使わないのだが、『Mother』はCOCK ROACHの最高傑作じゃないでしょうか。『ユリイカ』やまだ『赤き生命欲』を持ってないので比較対象は限られるけど、それでも最高傑作とつい書いてしまう美しさとエネルギーがある。

 twitterの感想を眺めていたときに絶賛の声が多いのにも納得した。『虫の夢死と夢死の虫』からCOCK ROACHが描きだす世界観に圧倒されてきて、新作で、ここにきてさらにスケールを増して圧倒されてしかもそれがどうしようもないほど美しいときている。

 『Mother』をこの時代の新作として聞けるとは、なんてありがたいことなのだろう。もう呼吸するように「死にたい」と思いつづけ日々、「生まれたくなかった」と生誕を否定するために本を読みつづけているけど、『Mother』が「さあ生きなさい。」との言葉を全身全霊で伝えてくるので、その言葉の圧に身を委ねるのもそう悪い気はしない。

 そうやって、「花と瓦礫」を気が狂ったようにリピートしつづけているんだけど、こんなアルバムを作ってくれて本当のありがとうの気持ちで書きおえた。

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大阪のなにかのイベントで撮った海月