単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

COCK ROACH「食人欲求者の謝肉祭〜カニバリズム・ン・カーニバル〜」を聴く

 COCK ROACHの新作『Mother』のレビューで「最高傑作」と書いたところで、そういえば『赤き生命欲』がプレミア価格でいまだに入手していないことに気づき、Amazonをチェックしてみたら手が出せない値段でもなかったのですぐに購入した。

 で、『赤き生命欲』は、「食人欲求者の謝肉祭 〜カニバリズム・ン・カーニバル〜」が頭一つ抜けてインパクトがあった。この曲は公式チャンネルでライブ動画があげられていたから初見ではないが、曲として聞いてみるとあらためてとんでもない。とんでもないとしか形容ができない。

 今日は11月29日で、どうやらいい肉の日にちなんで、「食人欲求者の謝肉祭 〜カニバリズム・ン・カーニバル〜」のレビューを書きます。

公式ライブ映像。


COCK ROACH / 食人欲求者の謝肉祭 〜カニバリズム・ン・カーニバル〜

 最初の客の「肉~!!!」って歓声、いつか機会があれば自分もやりたい。

 

 『赤き生命欲』のジャケットの帯に「広大な風景画的サウンド」と書いてある。まったくその通りで、COCK ROACHの曲は強烈なイメージ喚起力が秘められており、再生ボタンを押すとすぐに「今、ここ」ではないどこかに連れていかれている感覚を覚える。その連れていかれる地点は、始原や終末、または虫が蠢く石の裏や宇宙の端っこなどがスタンダードだが、『食人欲求者の謝肉祭 〜カニバリズム・ン・カーニバル〜』は狂乱騒ぎのお祭り会場となる。ただし、その祭りはカニバリズムカーニバルという、まったくもって現実離れした、生命欲が狂気にまで達した途方もない世界。

 いや、この曲に限っていえば、連れていかれるという表現はちょっと弱いかもしれない。どちらかといえば、躁狂めいたカオスのど真ん中に突き落とされるという表現のほうが適切か。飲みこまれるでも可。ようは、意識を持っていかれるってわけ。 

 

 静から動へと揺らぎつづける、ダイナミズムの振れ幅の巨大さに眩暈がしそうになりつつ、際限なく熱狂が高まりつづけていって、お祭り会場メインステージのサビで劇的なカタルシスに達する。カニバリズムという社会規範を逸脱したテーマなのに理性もこの狂騒に浮かされれば、ライブで「肉~!!!」って叫び声をあげてしまってもなにもおかしくないし、俺もいっしょに叫びたくなる。  

 

 この曲では、パラダイスが歌われている。ただし、「趣味と思想と芸術性に埋められた灰のパラダイス」。ミラーボールが登場している。ただし「赤とんぼの目玉がミラーボール」。僕らは踊っている。ただし、「僕らの目玉はグルグル回って列になって踊る」。きわめつけは、カーニバルの模様が歌われているが、それはタイトルどおりに「食人欲求者の謝肉祭 」。おまけに対象者は「僕等をコケにしたあいつの肉を食らう」ときていて、つまるところ、まったくもってとんでもない曲なのだ。

 

 生命欲が暴走している歌詞と遠藤仁平の喉からひねり出すような鬼気迫るボーカルと、そしてオルタナにもグランジからもポストをつけたところでカテゴライズさせてくれないバンドアンサンブル、これらが総体となった黒虫的世界を生みだしている。また、その世界を強化するためにグリッチノイズや拍子木、謎のSE音などのアクセントを取りいれており、いよいよもって隙がない「カーニバル」が頭の中に立ちあがってくるのだ。

 

 「いい曲」の判断基準はいろいろとあるが、そのなかでも「聴いていると元気がでる曲」という判断基準はみなに受けいれられやすいだろう。俺は「食人欲求者の謝肉祭 〜カニバリズム・ン・カーニバル〜」を聴いていると元気がでてくる。血が騒いできて、踊りたくなる。だから「いい曲」に違いない。現実に「俺をみろ」と怒鳴られつづけているときは、「腐った思想を食べたいな」と思うし「つまらん脳にメスを入れたいな」とも思う。そういうの大体、「もううんざりしている」「もうかんべんしてほしい」から現世離れして休憩したいって気持ちで、ようはオアシスを求めているのだ。で、この曲は、想像力の移動手段でしかたどり着けないが、それはそれはすばらしい真っ赤なオアシスなのだ。

 

 「カーニバル」というのは、「ハレ(非日常)」と「ケ(日常)」の「ハレ」のことであり、このとき非日常は日常から遠く隔てられていればいるほどいい。ただ、非日常のなかで日常と距離を置くことで見つめなおす、捉えなおすという理由からの教訓的な「いい」ではなくて、鑑賞するにも参加するにしても現世離れしてたほうが「楽しそう」の娯楽的な「いい」である。

 

 このバンドサウンドは、はじめて聞いたときの初期衝動フルスロットルって印象に反して、リズム隊の複雑なパターン構成、多彩な音色で祝祭感を演出するアレンジメントなどあり、構築力によって支えられていることが分かる。だから「カーニバル」のタイトルが名を呈するように、曲調には似つかわしくないが「ダンサンブル」ですらあるのだ。しかも「ダンサンブル」といっても、「みんなで手をひらひらさせる」ような集団行動的衝動ではなくて、体をしっかちゃめっちゃかに動かしたくなるプリミティブ的衝動。曲に詰まっているエネルギーに感染してしまう。

 

 さて、この曲が収録されたアルバム『赤き生命欲』を端的に表している歌詞が、「倍速で蠢く虫達の手足はその証明であり、たとえ千切られても蠢いている、手足は意識無くとも」。それは生きたい」や「死にたい」の意志を問わず、貪欲に求められつづける欲望であり、すなわち我々が線虫であった頃から連綿と身体に引き継がれてきた醜く強い生命欲。カニバリズムも赤き生命欲の変奏であり、生きている以上は誰しもがそのカーニバルへの参加資格を有しているのだ。

 なんつっても、カニバリズムといえども、人肉ならなんでもいいってわけでもなくて、「僕等をコケにしたあいつの肉を喰らう」ってのがいいよね。空腹がなによりの調味料になるように、カニバリズムにおいては恨みがなによりの調味料になるのだろう。ほんとカニバリズムのカーニバルはとても楽しそうで、やっぱり聞いていると元気が出るいい曲なんですよね。元気が出ます。そういう曲って、みんな好きでしょう? いい肉の日のテーマソングにぴったりなのではないでしょうか。

 

 余談。

 カニバリズムというほどではないが人間の部位を食べる話といえば、高野秀行が紹介している「中国の胎盤餃子」という料理や、某漫画家が人間の睾丸をイベントで食べたという逸話があったりする。まあしかし、俺はカニバリズムに一片の興味もなくて、「ウミガメのスープ」で自殺する心理が理解できずにどちらかといえば大岡昇平の『野火』で「猿の肉」として食すほうが理解できるが、いずれにせよ金も人脈もそして興味もないからカニバることはないから、この曲は元気が出るフィクションなのだ。