単行のカナリア

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すごい破壊と再生の物語 『雨の日のアイリス』を読む

 

雨の日のアイリス (電撃文庫)

雨の日のアイリス (電撃文庫)

 

 

BOOK☆WALKERの読み放題で松山剛『雨の日のアイリス』を読んだ。とりあえず短編を手あたり次第に読んでいて、とくにこの本と「猫と地球儀」が気に入った。

『雨の日のアイリス』は、ロボットが家庭にまで普及している近未来を舞台に、主人公の家政婦ロボット・アイリスの「破壊と再生」をテーマに据えた、いってみればジョブナイル物語。わりと王道。

世界設定といえば、ロボットが日常的な風景になっている世界で、人間とロボットを外面的に区別するのは「耳元に丸い通信アンテナ」を装備しているかのみ。それ以外は現代社会とそう違いはない。

というか、ロボット技術のみが突出して発展しているのが本作の特徴ともいえる部分で、主人公家庭用ロボットは人間と同じように思考し同じように苦しんだり笑ったりする。アイリスはホラー映画が苦手だし、好きな人にお気にいりの服を褒められると嬉しくなるし、感情の描写だけを読むと人間とロボットに線を引くことが難しい。それくらい人間的。

アシモフが提唱したロボット工学三原則を、この作品では「三大回路」―精神回路、動作制御回路、安全回路―に落とし込でいるが、それも取り外し可能ときているからますますもって人間と接近している。

で、『雨の日のアイリス』に驚かされたのが、そのほぼ人間の主人公が、彼女が仕える主人の死去を理由にお払い下げになって解体される序盤のシーン。「破壊と再生」というテーマのなかで、「破壊」が徹底的に描写されていくのだ。

 灰色の殺風景なフロアに入ると、解体機械のアームが僕の右腕を掴んだ。警察官に拘束された犯人のように、ギチギチと僕の腕は背中のほうにねじり上げられる。脳内でけたたましく警告音が鳴り出すと、僕はすぐにプログラムを切った。こんなもの、今となっては何の役に立たない。

 解体機械のアームには数百はありそうな突起がついていて、それぞれが触手のように蠢いていた。突起からは白い粘着質の液体が飛びだし、僕の右腕を絡め取った。この液体は火花を防ぐための消火剤のようだった。熱で泡立った白い液体はどこか石鹸水に似ていた。

 右腕全体が白い泡に塗れると、解体アームから指一本くらいの細いレーザーが発射され、僕の肩回りをなぞるように切断していった。あまりの激痛に僕は叫び声を上げ、反射的に痛覚機能をオフにした。そうしなければ気が狂いそうだった。

 しばらくすると人口筋肉がブチブチと断裂する音が聞こえた。機械油を体内に流していたチューブが切れると、油が跳ねてレーザーに飛んだ。そのたびにジュっと音が出て嫌な臭いの煙が吹きあがった。

 解体が始まってから三十二秒間で、僕の右腕は、あっけなく肩から切断された。

これが序の口。まだ片腕だけで解体は全身にまで至る。

もし対象者が人間だったならば、おそらく片腕が切断された時点で意識はもシャットオフされるだろう。が、アイリスがどれだけ人間っぽくてもあくまでロボットなので痛覚機能さえオフにすれば、自分が解体され尽くされる瞬間を鮮明な意識を保ったままで目にしてしまう。

解体は徹底的に行われる。手足は切断され、首から胴体が切り離され、さらには髪の毛が頭皮から毟り取られる。「皮を剥かれ、果肉をそぎ落されるフルーツのように、僕は少しずつ緩慢に解体されていった。歯茎をはずされ、舌を抜かれ、鼻を削がれ―」と、まるでおもちゃのパーツを取り外すがごとくアイリスの体がバラバラにされていく。

おまけにアイリスが次に目を覚ましたときは、ジャンクのパーツで継ぎ接ぎされたまったくべつの顔形のロボットになっている。破壊はその限度を知らず、アイデンティティそのものをゆらがす粉々にする。

 

という、解体シーンは序盤の展開であり、そこからは再生の物語が始まっていく。巨大で寡黙な心優しき元戦闘用ロボット、利発で思いやりがある人間型ロボットとの出会い、生き方の指南になる本との出会いなど、そこからはいたって真っ当に上向いてく。ここらへんはよくある展開で、だが、それまでの絶望的状況があるから終始「よかったね……本当によかったね……」の気持ちで読んでいた。

 

物語はキレイなハッピーエンドを迎える。

上記の破壊のあとには素晴らしき再生が待っているから、読後感はよくできたジョブナイル小説を読んだときの爽やかさがある。破壊はいずれ克服されることが前提の試練にすぎない。『雨の日のアイリス』においては結果よければすべてよしといえるかもしれない。

それでも、いまだ心に訴えかけてくるものがあるのは、やっぱり破壊の描写がえげつけないからだろう。そもそもアイリスというキャラクターはホラー映画を観ると「だ、だだ、大丈夫ないですよ! ななな何ですか、あのズバーっと切れてドバーッという映画は!」と恐怖でガクブルする繊細な感性を持っている普通の少女だ。

そんな可憐な少女が対象になってるから解体シーンは悲惨でしかない。人間だったらもう序盤からスプラッター小説になるところ。でもロボットだから、再生して結果なんだかんだでジョブナイル小説になっていて、人間とロボットの差異に脳が混乱して面白かった。

あとがきで「ロボットを、もっと『人間らしい存在』として書いてみたら面白いだろうな」と書いてある。作者が意図した面白さかどうかは定かではないが、とても人間らしいロボットの視点を借りることで、破壊と再生のスケールが一回り大きく厳しくなったと感じている。そこが見所といえば見所。

結局は『雨の日のアイリス』はハッピーエンドだから、こう俺が書いてきたように破壊にばかり着眼しているのは物語の説明としては不適切だろうが、感想といえば「破壊と再生」の破壊がすごかった……となってこんなタイトルにしたのだった。