単行のカナリア

感じて想する

Syrup16gの歌詞についての音楽文


ongakubun.com

音楽文というロッキング・オンが運営している読者投稿型レビューサイトがある。

俺もこのサイトにSyrup16gについてなんか投稿したいと思って書きはじめたものの、そういえば雑誌にSyrup16gに関する記事が掲載されたときに『音楽と人』はいつも読むけど『ロッキンオンジャパン』はあんまり読まねえなと気づき、途中からは音楽文で読んだ文の形式と雰囲気だけを借りてブログ用に書くことにした。

少しずつ書き足していたのだが、なんかもうキリがないっぽいので公開することにした。

 

上記サイトの形式に則って大タイトルと小タイトルを付けるとこんな感じ。

大タイトル:syrup16gの歌詞を巡る考察

小タイトル:「心なんて一生不安さ」はれっきとした態度の表明である

 

以下、音楽文。

※※※

2019年の10月から開始したsyrup16gのライブツアーのタイトル名は《Tour 2019【SCAM : SPAM】》で、ライブTシャツのデザインになったように「迷惑:詐欺」といった意味がある。

十数年の従来のファンからすると、挑発的なタイトルだなあとやや身構えながら参加したツアーの大阪公演初日目、MCで五十嵐隆がツアータイトルの意味を語った一幕があった。

「皆さんのおかげで得難い経験をさせてもらって、これでお金をもらって、詐欺だって」

タイトルに込めた意味には捻りはなく、そのまま自分たちのライブが「詐欺:迷惑」に値するものというもの。またらしいなあ、とほほえましい気持ちになった。当のライブは、ツアータイトルこそが詐欺といわんばかりに、五十嵐隆のボーカルやギタープレイはさらに洗練されていて、解散前/解散後で区別するおもしろい試みのセットリスト、もはや円熟の境地にまで達しつつあるバンドアンサンブル、といったように「詐欺:迷惑」の対極のような濃密なステージだった。

 

さて、syrup16gといえば、80年代のニューウェーブ、90年代初頭のグランジからポップスやシューゲイザーなどへの憧憬を自らなものにする五十嵐隆のソングライティング能力、また鮮やかなな色彩を加えていくキタダマキ中畑大樹の熟練のプレイヤーからなる3ピース体制、苦痛や葛藤を優しく掬いあげて、口にすることが憚れるような弱さや情けなさにも目をむけ、そしてまた一抹の希望を歌にしてきたバンドだ。

自らが吸収して血肉化したエッセンスを、タポカストを多様とした独特のコードやシンプルゆえの美しさを備えた循環コードに落とし込む、その五十嵐隆の手腕からはメロディーメーカーとしての評価も高い。

が、もっとも言及される要素といえば、五十嵐隆が紡ぐ歌詞にこそだろう。わたしの入り口もまた、たまたま手にしたCDから聞こえてきたこれらの鮮烈な言葉だった。

 

《涙流してりゃ悲しいんか/心なんて一生不安さ》(”生活”)
《したいことも無くて/する気もないなら/無理して生きてることも無い》(”明日を落としても”)
《復讐それこそが/生きる意味になりうるんだよ/疑う余地はないね》(”汚れたいだけ”)
《君は死んだ方がいい》(”デイパス”)

 

はじめてsyrup16gの洗練を浴びたときは、身も蓋もない歌詞の生々しさに耳を奪われ、ときには死を希求するような絶望さえも歌にしていることに、驚き、そして感情がようやく居場所を見つけたかのようにハマっていった。ブラックなユーモアに溢れる言葉遊びや、ディティールにこだわった美しい情景をまた楽しみながらも、なによりも、苦痛や悲哀を明快に表現してくれる歌詞に惹かれたものだった。

 

しかし、自身が社会に染まったり逃げたりしながら年を重ね、知りたくないことも知り、分からないことが分かるようになるにつれて(というのは投稿用の文句であり、本当は全曲レビューを通じて)、syrup16gの歌詞はそう一様に捉えられないものではと気づくようになった。むしろそういった状況になるのを避けているのでは、と。その思いは、聞き直してみればみるほど深まっていた。

 

いまでは、syrup16gの歌詞は、絶望と希望の二項対立のような単純さはなく、多くの楽曲で分かりやすく耳目を引きつける言葉のあとに、「しかしそれだけではない」と吐いた言葉を寄りもどすフレーズが差し込まれ、極端に居すわりつづけることはないと分かる。

だから、上記の引用のように、歌詞から特定のフレーズのみを抽出してしまって部分のみに目を向けると、その後の重要なフレーズによって創発化していく全体像が見えなくなってしまう。それはすなわち、希望と絶望といった部分の性質の単純な総和にとどまらない複雑さが、曲全体になったときに立ちあがってくることである。

 

《生活はできそう?/それはまだ》(”生活”)

《そう言って/楽になれること/いつの間にか気付いていた》(”明日を落としても”)

《壊さないで》(”汚れたいだけ”)

《歌になんない日々は/それはそれでOK》(”デイパス”)

 

全体として眺めるために、先ほど引用した楽曲を再度見直せば、『生活』では、「心なんて一生不安」な状況下でも「生活はできない」と断定することはなく、「それはまだ」といつかはできるかもしれないと含みを持たせている。さらに『明日を落としても』では、生きていることを諦めるような言葉のあとに、「そう言って楽になれる」と死を求める心そのものが癒しになっていると分かる。 

そして、『汚れたいだけ』では、「汚れたい」に収れんされる自暴自棄な感情にたいして「壊さないで」と優しい抵抗を見せる。また、『デイパス』の、「君は死んだほうがいい」ような日々を「歌になんない日々はそれはそれでOK」と肯定している。

 

このように、全体として捉えなおすと、分かりやすい言葉は否定はされないが、新たな意味を付与されていくことで、画一的に受け取るのは難しいと分かってくる。しかも、正反対の言葉によってコントラストを強調するものではなく、位相をずらして新たな意味を差しこむような言葉を選択し、その結果、歌詞は一意的に留まってはくれない。まるで割り切れない除算の小数点を延々と書きつづけるように言葉が継ぎたされていく。 

その有り様は、白黒思考の単純さの罠を慎重に避けつづけ、白と黒の両極間に横たわるグレーゾーン、言い換えれば絶望と希望のスペクトラムをたえず綱渡りしているようだ。その場所の居心地はけっしていいものではないだろう。なにせ、単純明快の心地よさを捨て、複雑さに向きあいつづける状況は、すなわち「不安」に他ならないのだから。

  
おそらく、そのような態度を選択しつづける理由として、ツアータイトルの[詐欺:迷惑]が自身の持つ違和感の表明であったように、五十嵐隆が自分に率直だからであろう。詳しくいえば、自分にとっての正しさを追求していく態度ともいえる。

自身の苦しみをストレートに綴った言葉も率直だからだろうし、同曲で、苦しいには違いないが苦しいだけではないとも綴った言葉だって率直さゆえ。それゆえに、画一的になりかねない状況を避け、希望と絶望の両極間の心の移り変わりをダイナミックに写しとり、分かりやすさに身を委ねることがない。

この態度に関しては『(I'm not) by you』の「一つ残らず計算で割り切れないものばかり/確かなことは少しだけこの胸にある思いだけ」が当てはまる。

 

そして、その態度は、ときに社会通念として流通している虚構や欺瞞にまで向けられるている。

 

 《「すべては愛」/そりゃあまあ/言ってるだけなら同感/そんな訳ないが》(”Drawn the light”)

 《夢は叶えるもの/人は信じあうもの/愛はすばらしいもの/もういいって》(”もういいって”)

《程なく人生を/そつなく終えれば/ヤクザも官僚も/ロックのロクデナシも/みんな負け犬でしょう》(”負け犬”)

《付け足さないで/そのままで/ただの名もなき/風になれ》(”パープルムカデ”)

 

といったように、夢、愛、信頼といった無条件に肯定されがちな社会通念に疑問を呈するk氏もある。ただし、それは「そうではない」という否定ではなく、保留付きの肯定や、自分には適応されないという控え目の範囲内で行われる。

そしてまた、『負け犬』や『パープルムカデ』などの楽曲では、死、戦争といった、特権的な意味を帯びたテーマを、誰も彼もが生きていく日常の風景のなかで再び捉えなおそうとし、その特権性から引きずりおとす。

いわゆる「普通」にまつわる信念を、その普通からこぼれてしまった人間の一人の立場から、ささやかな反例として自分の率直な態度を表明しているわけだ。

 

ついには、syrup16gというバンド活動について、愚直とすらいえるような身も蓋もない言葉を吐きだしている。

 

《歌うたって稼ぐ/金を取る/シラフなって冷める/あおざめる》(”ソドシラソ”)

《今さら何を言ったって/四の五の何歌って/ただのノスタルジー/生ゴミ持ち歩いてんじゃねぇ》(”生きたいよ”)

《結局俺はニセモノなんだ/見世物の不感症/拾った想い吐きだして/愛されたいのまだ》(”ニセモノ”)

 

前二曲は、メジャーデビューアルバム時に制作されたもので、そいうった環境の変化に対する「違和感」を表明している。それもこれも率直であること、そうであることに誠実だからこそだろう。もはや『ニセモノ』に関しては、それは言わなくてもいいのではと踏みこんだ暴露になっており、《結局俺はニセモノなんだ》と、syrup16gの歌詞ではめずらしく結論としての《結局》の単語が登場するのが、このバンド活動における欺瞞を自己批判する言葉であったことは感慨深い。神経質的なまでの率直さ。

 

syrup16gは不思議なバンドだ。器用なのか、不器用なのか。よく分からない。

五十嵐隆が過去にさまざまなジャンルに傾倒し、そこで血肉化してきたエッセンスを類まれなるソングライティング能力でまとめ上げる器用さと、一方で、つねに率直でありつづけることを選択してしまう態度の不器用さ。そしてまた、感情を言葉遊びを織りまぜながら、耳馴染のいい言葉に落とし込む器用さ。syrup16gの魅力、ひいてはソングライター五十嵐隆の魅力は、独特のバランス感覚に支えられている。

五十嵐隆が率直であり、社会的評価に安心しきることがない以上、詐欺とツアータイトルでまったく詐欺と呼ぶことができないライブ、天才ではないと歌いながらも天才と評価され、ニセモノではないと叫ぶがホンモノと返される、作り手と聞き手の攻防戦は終わることはないだろう。だからこそ、一ファンとしても、率直にsyrup16gへの思いをこうして表明しつづけたいのだ。

 

部分としての断定と、全体としての曖昧さ。それはまるで移し鏡のように、聞くものそのときの感情とリンクする。わたしがかつて部分としての断定の力強さに心を奪われ、いまでは全体としての曖昧さにリアリティを感じるように、そして今もまたやはり《君は死んだほういい》という言葉だけを耳にして心を安らげてしまうように。

きっと《心なんて一生不安さ》は、ただそうであるといった事実としてだけでなく、そう生きるといった態度の表明でもあるのだろう。それゆえ、心が一生不安だとしても、なにも悲しむことではない。それはつまるところ、ひとつのれっきとした態度の表明に他ならないのだから。

※※※

 

じつは前に似たようなことを「メンタルヘルスとsyrup16g」でも書いていた。それをより膨らませたのが今回の記事で、大体書いてあることをまとめれば「そう簡単に決めつけることはできない」とありきたりの内容になる。

なんというか、俺はこれまでsyrup16gについて好き勝手に書きつづけていて、しかもあまりよくない印象形成に加担しているという後ろめたさがあって、その思いとあらためて向きあって出てきた言葉が上の音楽文だった。

それぞれのsyrup16g像があるだろうし、それぞれの曲の受け取りかたがあるのだろう。そのひとつの、俺はこう考えてこう聞いているという話でしかない。「なぜ、俺はsyrup16gをこうも好きなのだろう」は謎で、とりあえず手始めに歌詞から謎の解明に取り組んでいるのだが、それもまだ全然分からずじまいだ。

そして、俺はやはりsyrup16gが大好きなんだと気づかされる。すばらしいバンドだ。そのすばらしさをどうにか文章にしたいと思い、ぐるぐると頭を抱えて言葉を見つけるべく書きつづけている。