単行のカナリア

感じて想する

2019年のおわり

絶えずやまない自己嫌悪によって生じたのは、他人の言葉と他人の思想によって自意識を希釈したいという願いで、それが上手くいきすぎたのが2019年だった。自分の頭の中をひっくり返して言葉を探し出すよりかは、部屋に転がっている本やインターネットで目にした文章を引用したほうがより正確に自身の感情を表せると思うことが多かった。というかだいたいそうだった。

すると、シオランが言う。

いつも誰かについての、作者についての、作品についての、他人の思想についての論文、研究、本、さらには大げさな書評、無益で凡庸な解説、こういうものはどんなに見事なものだとしても、それで事態が変わるわけではない。他人を語って才気を見せるより、ぶざまでも自分について語る方がずっとましだ! 生きられたものでも、根源から流れ出たものでもない思想、こんなものにはなんの価値もない。

『カイエ』

 THE BACK HORNに言わせるならば、「涙がこぼれたら」の「胸が震え涙が零れたら 伝えなくちゃいけないお前の言葉で」で、Syrup16に言わせるならば「Rookie Yankee」の「人の気持ちも固有の気持ちも 絞りきって全部で死のう」だろうか。

インターネットによってありとあらゆる感情がカタログ化されて5分後にはぐぐって見つけられる時代でもまだ十全とはいえない。たとえ、他人の言葉や思想がどれだけ自分事のように感じたとしても、自分にとっての正しさを突き詰めていけば、きっと「似ているけど、決定的に違う」という自分固有の感情が見つかるはず。何かに似ているとしても、ほんの些細な違いを大事にするならば、まったく同じであることはありえないのだから。

それを書くべきだし、それがあるからこそ書く理由になる。自分の中からは、自分が求めるような言葉が出てこない、としても。それでも。

とはいえ、おそらく来年も今年に引きつづいて、本を読んでノベルゲームをプレイして漫画を読んでインターネットを巡って、それらに沈潜し、相変わらず違うのに似ているものでやっていく予感がしていて、そうなると書くことがなくなるけど、でもブログは続けていきたいなと思った2019年のおわり。

よいお年を!