・2022年に投稿されたSyrup16gについてすばらしいレビューを読んだ。
・俺含めて死ぬほど好きな人が沢山いるだろう作品の「HELL-SEE」について、制作背景やコード進行、楽曲構成、さらに歌詞にまで言及した、アルバムを細緻に読み解いたレビューだった。
・他にアルバム「coup d'Etat」、「パープルムカデ」「My Song」についてのすばらしいレビューがあり、当然読んだ。
・リスナーとしても「そこ、そんなことやってたったんだ」と気づきや、ブログを書いてる俺としても「あの曲のあの感じってそう表現すればいいんだ」と学びがあった。
・記事末尾に「それこそ、こっちも死ぬほど好きな人が沢山いるだろう作品だけど、こんな文章で果たして本当に良かったか…?」と書かれていたが、本当に良かった。俺は。
・Syrup16gのレビューで「〇〇ではない」「〇〇だけではない」という表現をよく見かける。〇〇に当てはまる言葉は、暗いとか、メンヘラとか、鬱ロックとか、その手のアレやコレ。
・Syrup16gが「〇〇ではない」といった否定型とともに語られるのってなぜだろうと思った。
・聞けば聞くほどに「Syrup16gは〇〇なバンドだ」と安易な一般化から遠ざかってしまうからだろう。
・詳しく書いてみる。歌詞ならば、年間俺からリベラル能力資本主義社会まで見据えた、視点の多様さ。言葉遊びやダジャレによってマジかネタかの境界線がぼやけている絶妙なバランス感。そして、サウンド面では、上記で紹介したレビューにあるように、出力の仕方のバリエーションの広さ。弾き語りで成立するようなシンプルにメロディーが美しい曲もあれば、ライブで3ピースバンドとして演奏してこそ輝くようなバンドサウンドもある。ほんと色々ある。
・聞いて、誰かが書いた文章を読んで聞きなおして、その繰りかえしを経ると、一般化がことさら難しくなる。一言で説明したときにこぼれ落ちるものを見ないふりするのが辛くなる。
・そこで「〇〇なバンド」と断定するような言説に眉をひそめたくなるのだろう。まあ別にこれはSyrup16gに限った話ではないが俺はいまSyrup16gの話をしています。
・「で、結局どういうバンドなの?」と質問されたら俺は「すばらしいバンドだよ」としか答えられない。
・Syrup16gについて書かれた文章にはいろいろなものがある。ほんとにいろいろ。
・上で紹介したブログのように全ての要素を分析し丁寧に読み解いているレビューもあれば、一方で、俺のように自分語りに終始してレビューなのかポエムなの分からない語りがある。
・書くよりも読むのが好きなので、twitterなどで「Syrup16g ブログ」とか「Syrup16g レビュー」と定期的に検索しては読んでいる。
・「歌詞についてググったら全然分かってないし、レビューじゃなくてただの自己憐憫のポエムだった」みたいなツイートを目にした。詳しくは覚えてないけどニュアンスはそんな感じ。
・思い当たる節がありすぎる。俺のことかはわからないが、俺のブログのSyrup16gカテゴリにある記事がまさにそれ。
・自己陶酔の自分語り、自己憐憫のポエム。まったく的を得ている。俺自身、これ、Syrup16gの曲について書いているのか、自分について書いているのか分からなくことはよくある。
・ただ「全然分かってない」は引っかかるし、首肯できない。
・「全然分かってない」って、要は、「わたしの解釈(聞き方またはレビューでも)があなたの解釈より正しい」って意味でしょう?
・解釈に正しい/正しくないの基準を持ちだすのは慎重になったほうがいい。そう軽率に「正しさ」を持ちだすと、テクスト論とか形式主義的アプローチとか不透明な批評となど、しちめんどくさい批評理論が家に押しかけてくる。
・ただ「あなたが、あなたの解釈が他人のそれより正しいと言うとき、その正しさをどういった根拠で判断しているのか」と問うだけでもよさそう。その根拠に提示する何かは何かしらのイデオロギーに基づくことは避けられない。と最近読んだ。
・主語から語りはじめて「俺はこれが好き」とか「俺はこう思った」という話をしよう。
・正しいとか正しくないとかの行き着く先は、「みんな偉い解釈もってていいなァ!! じゃあ解釈バトルしようぜ!! 解釈バトル!!」となり、死後なお決着がつかない。
・なぜ俺はSyrup16gの曲を聞いていると語りたくなるのか。
・好きだから、たくさん聞いているからってのは当然ある。ただ、それだけではないような気がする。Syrup16gには俺の語りを誘発する特別な理由があるような気がする。
・そのなにかを一言でまとめるのは難しい。
・俺の頭の中には、誰とも共有することができなかった、物語にまとめあげることができなかった、断片的な痛みや苦しみのエピソードがある。エピソードのひとつひとつが些細なもので、まとまりなく散らばっていて、どう扱えばいいかわからずに置いてきぼりにされている。
・それらの断片的なエピソードが、Syrup16gの曲で、特に歌詞によって掬いあげられることがある。
・「神のカルマ」の「最新ビデオの棚の前に2時間立ち尽くして何も借りられない」や、「I’m 劣性」の「バイトの面接で「君は暗いのか?」って精一杯明るくしているつもりですが」とかの歌詞とか特に。
・肝要なのは、これらの歌詞がいいメロディー、いいバンドサウンド、いい歌声といった「いい曲」のなかで歌われていることだろう。比喩でしかないが、いい曲に感情をかき乱されることで、澱となって沈んでいた断片的なエピソードが浮かび上がってきて、掬いあげることができる。
・そのときはいい曲を聞いているときだから、気分もそう悪くはないときているし、むしろ、気分が浮きたっているから「この曲を聞いていて思ったけど俺は……」と語りをはじめてしまう。
・自分語りを口に出さずに心に留めておくならば、その心情は共感と呼んでもいい。「ああ、私もそうだ……」と。深夜3時の歌詞ツイートだって、自分語りと歌詞がまったく同じものであっただけで、そこでなにかしら語られているのだろう。
・……分かりづらいなここ。なにかしらの説明に失敗することがあり、俺はそういう場合のほうが多い。
・「Syrup16gは〇〇バンド」とレッテル張られるときのイメージ形成に俺はもしかすると寄与してしまっているかもしれない。
・俺は「Sonic Disorder」の「だから先生 クスリをもっとくれよ」の生活を地でいっていて、この薬はその容量以上の処方はできませんよとか断られるし。ある漫画で「生きたいよ」ってセリフを見つけたら「Syrup16gの歌詞で見た!!!」とすぐにスクショ撮って引用しようとしているし。
「酒とばらの日々」/華倫変
・「お前みたいなやつがいるせいからSyrup16gは○○バンドって言われるんだよ」 それはもうほんとごめんなさい。
・俺、ある方がリストカットをするときはいつもサカナクションの「モノクロトーキョー」のサビのシャウトに合わせて切る、って生前にブログで書いてたの読んで、よりその曲を好きになってしまうような感性を持っているので、どうもうまく言えないんだけど、曲はいろんな聞き方がされていいわけで、それがときにレッテル張りされるような聞き方でネットに書いたとしても、その人にとって切実なものであるならば俺は尊重したいし、というような。むしろ、そういうネット外では口に出しにくいことこそ語ってほしい、というか。
・いろいろ考えながら歩いていたら「そもそもお前のブログ読まれねえよ!」って見知らぬおやじに怒られる。
・インターネットにはこの記事をはじめ、「俺にとってのSyrup16gについての語り」がが無数にある。
・俺は「僕はSyrup16gを○○のようなバンドだと思っている」とか「私はSyrup16gを〇〇バンドとは思わない」とか、いろんな語りを読むのが好きだ。
・最初にリンクを張ったレビューという表現に相応しいような精緻な語りが好きだし、Youtuberに変な影響をうけた態度がでかい子供が個人の感想うんぬん言う隙もないくらいの私的な自分語りも好きだし。
・みんな色々と書いてるな。愛されているバンドなんだな。と思った。