単行のカナリア

感じて想する

4.

2015年頃に書いた遺書のようななにか。PCのドキュメントにあった。当時の記憶は薄れかけているが、これまでの人生でもっとも「死にたい」の声が大きかったのは確か。俺はこうして生きているので、どれだけ死にたいと書いていたとしても「生きたい」と読まれたところで特に不満もない。そんな遺書のようななにか。

 

はじまり。

ぐだぐだと長ったらしいうえに、最期ということで堅苦しい文になってしまいましたが、これが最期なのでどうか付き合ってください。

自殺にするにあたってとくに明確な理由はありません。わたしには将来の夢や気の合う友人、安定した職業などはありませんが、それらが自殺する理由になったわけではありません。一般的な価値観からするとわたしの生活は落伍者のそれに見えるとしても、わたしからすれば当たり前の生活でしかないのです。なるようになったことをただ受け入れるだけです。しいていえば働くことは嫌ですが、だからといってそれが死ぬほど嫌だというわけでもありませんし、いまの職場には特に不満もありません。
  
ただ、もう、うんざりしてしまいました。生きることに疲れてしまったのです。疲れるほど何もしていないではないかと笑われるかもしれませんが、わたしはもうこれ以上は何もしたくないという気持ちが常にあります。そして、この願いを成就させるためにはわたしはやはり死ぬしかありません。本当に何もしたくない。うんざりしているのです。


四年前ほどからでしょうか。頭のなかで「もう死んでしまいたい」といった希死念慮が生まれはじめました。そうなったのは、わたしが皆から求められていたのにその通りになれなかったという罪悪感が影響しているのかもしれません。この罪悪感が非常に強くいつまでも拭い去れきれず、いまに至るまで悪夢としてもフラッシュバックしてもわたしを苦しめてきました。両親や親族を含めて皆から望まれていたのにかかわらず、わたしの努力不足・根性不足のせいでその通りになれなかったことに関しては申し訳ありません。

 

母や父はわたしを生んで失敗したと思っているでしょうが、わたしもあなたたちのような親を持ってこうなったので痛み分けでしょう。もうわたしはあなたたちのことは恨んでいませんし、そもそもわたしが生まれてきたのが間違いだったのです。お互いに大変でしたね。


冒頭の繰りかえしになりますが、この罪悪感が明白な理由というわけではありません。そもそもなぜわたしが自殺することを決意したのか、正直なところ自分でもはっきりとは理解できていません。ただ死にたい、もう死んだほうがいいという思いがあり、その思いを冷静になって何度検討してみて確かなものであると分かったので、それならば死のうと決心した次第です。なぜかそれだけは確かなことのように思えます。
 

わたしが自殺することで皆さんに多大な迷惑をかけることは承知しています。だから、自殺以外の選択肢はないかと頭を振りしぼってみましたが、どうしてもわたしが納得する選択肢としては自殺以外はありえないようです。


母が言うように、わたしはまだ若く、こうした最終的な決断をするには時期相応だとは分かっています。いろいろとやり直せる可能性はあるでしょう。しかし、それでもいま死ぬことを選ぶことにしました。これ以上望むことはありませんし、これ以上の苦痛は勘弁してほしいのです。わたしの足元からこれから先のことを眺めてみると、ここから立ち去るという選択肢しか見えません。それでもここまで十分長かったような気がします。


あくまで勘違いしないで欲しいのは、わたしが自殺するのは決してあながたが直接的な原因ではないということです。自殺念慮のはじまりは罪悪感だったのかもしれません。しかしそれははじまりだっただけです。わたしはわたしなりに生を謳歌できたからこそ、これから先の人生を見限ろうと思えたのですから。まったく未練はありません。後悔だってそうありません。もう思い残すことがあまりなく、もうこれで終わっても納得できる人生だった、そう思えたからわたしは今死ぬことを肯定するのです。

 

皆さんはけっして後悔する必要はありません。わたしの自殺は、わたしがこれ以上苦しみたくないという我儘ですし、これ以上もう生きることもないという独りよがりの納得ゆえの出来事です。恨むことはあるでしょう。それは承知しています。しかし悔やむ必要はありません。といってもそれが難しいのは分かっていますが、それでもわたしはこの行為がけっして不幸なものではないと皆さんに思って欲しいのです。世の中にはそのような人もいて、それがたまたま自分の身内だったと思ってください。ただ運が悪かったと言えるかもしれません。私たちの家族は皆それぞれ。だとすれば、どこにでもある仕方がなかった話にすぎないでしょう。

そもそも自殺といっても余命の放棄でしかありません。これからどれだけの時間が私に残されているかは分かりませんが、それらの余命を放棄するだけなのです。

 

何も成しとげられなかったわたしの人生において、もし死ぬことを成しとげられたのであれば、それはわたしにとっては誇りでしょう。みなさんには多大なる迷惑、もはや迷惑といったレベルではない迷惑をかけてしまうのは承知のうえで、わたしの旅立ちを見送ってもらえたら幸いです。あまりわがままを言ってこなかった私の最期のわがままを聞いてください。


さすがに幸せな人生だったとはいえませんが、少なくとも納得がいく人生ではありました。それだけで十分です。

おわり。

 

 

この遺書のようななかば有名になった某コテハン持ちのブログの遺書に比べると、なんというかぼんやりとしている。それはそうで、あっちは実行しさらに自殺実況配信までしたが、俺は死んでないのだから。というか、死なないために書いたような気がする。

 

俺が好きなTwitterの人が死ぬ死ぬ言ってるのを通報されて規制されるのがうっとおしくなったのか鍵垢になって悲しくてほんと通報するやつクソだなと思った。それと同時に自殺予防の本を読んでいると死ぬ死ぬ言うと「あなたの思いをそのまま聞かせて」と規制されるのはしょうがないとも少しだけ思った。WHOの自殺報道ガイドラインは守ったほうがいいのは確かだが、それよりかは弱いが、死にたいと口にすることが当たり前の世の中であってもいいのではと思う。だって「みんな苦しい」らしいし。

自殺予防の本で、語りは傷にも癒しにもなる、とあった。

 

俺は「死にたい」と度々口にしていた母がそのとき死んでほしかった、という経験があるせいで、自分の「死にたい」も他人の「死にたい」への思いがいまいち定まらない。俺が知っている人が「死にたい」と言ったら死んでほしくはないけれど、むしろ死にたいなら死にたいと言葉にしてほしいけど、もっとも身近にいた母には死んでほしかったから、そのせいで一般化できなくなってよく分からない。

さいころの俺が「なんで死にたかったのに死ななかったの? そのほうがよかったのに」と無邪気な顔で言っていて、俺の家庭環境に限ってはいえばその言葉が正しかったような気がして何も言い返せない。

 

それにしても「私の家族だって私の遺書が長文ならとばし読みする」だろうな、ほんと。俺はいま死ぬと仲のいい甥っ子に負荷をかけてしまう一点だけでもだいぶ遠ざかっている。そういうの、心の支えというのか、障害物というのか、なんと呼べば分からないけど、あらた若い甥っ子を悲しませちゃだめだろうという気持ちがあり、それはシンプルで力強い。でもゲームで対戦するときは手を抜かずにボコしてい悲しませてもいる。

 

ただ俺の例をもってして「死ぬ死ぬいうやつは死なない」とか抜かすやつは立ち止まって考え直した方がいい。俺はその例にいまのところ当てはまってしまうが「死ぬ死ぬいってたから死ななかったことがある」くらいは書いておく。