5.「みんな苦しい」
「みんな苦しい」という言葉は、個人に固有の問題を一般化することによって、人間全般に共通する事象にすり替えることで、個人の苦しみを封殺するために使用されることが多い。
しかし、よく考えてみると「みんなが苦しい」ならば、そこには紐帯の機会を見いだすこともできるのでは。みんな苦しい、お前だけじゃない。から一歩進めて、みんな苦しい、俺も苦しい。ならば、そこから対話が始められるかもしれない、と。
そもそも「みんな苦しい」は、苦しさの質的量的な問題がないがしろにされている。その頻度でさえ同意を得ることは難しい。有無でいうならばそりゃあみんな苦しいだろうが、しかしそれは、特定の情動を「苦しい」と表現する文化体系に属している以上の意味はなさそうだ。
だから、まずは「苦しい」を掘り下げてみる。
例えば
「みんな苦しい」
↓
「みんな酒や薬で勢いをつけてロープで非定型でなるべく苦しまずに縊死したいくらい苦しい」
と言い換えてみる。
分かりやすい……か? まあ基本的には人間の思考パタンは限られているから、曖昧模糊としている「苦しみ」の表現に対して比喩は役に立つだろう。「みんな脳の中に不安回転体があってそれがグルグルと回り出して不安の霧のなかにいて苦しい」でも、「みんなブロンODとメジコンODして意識どうにかしたいほど苦しい」でもいいだろう。俺には想像すらできない苦しいの表現も死ぬほどあるだろう。その集積が本来意味している「みんな苦しい」が本来意味していることだ。
おそらく「みんな苦しい」という言葉に足りてないのは、具体性だ。
どのように苦しいのかを具体的に語ってもらえれば、お互いに苦しいんだねと共感が生まれ、もし同じ苦しさで悩んでいるならば問題解決に向けて建設的な話に繋がるかもしれない。そのような対話はケア的意味合いを帯びることだってあるだろう。
「みんな苦しい」は難しい言葉だ。みんなと苦しい、という言葉が扱う対象の多さと曖昧さが取っつきにくい。だからまずは「苦しい」を解体して、みんなのうちである自分の苦しいを構築することから始める。具体的なエピソードを持ち出してもいい。観念的理由でもいい。そして「苦しい」を他者が認識できるよう表現する。誰かにとっては大したことがないかもいしれないし、ありきたりかもしれない。ほとんどはそうだろうが、それでも苦しいに具体性を与えたほうがよい。
「つながりの作法」という本で「「意味」とは、人がたった一人きりでいて生まれるものではなく、少なくとも異なる二者が同じものに注目し、それについて「どのように解釈しているか」というまなざしを共有することによって立ちあがるもの」とある。
そうしてはじめて「みんな苦しい」が意味を取り戻しはじめる。
しかしそうは言っても、苦しみは表現するのがとても難しい。表現できないからこそ苦しい、ということのほうが多いだろう。どれだけ慎重に言葉にしたところで零れ落ちるなにかがあるような気がする。俺たちにできるだけでいい、できる分だけ苦しみを言葉にしたためるのだ。不器用に、無様に、何度失敗しても苦しみを摑まえるという意思のもとで。
また同じ本から引用するが、「自分に起きていることに対して、何か具体的な対処やケアが必要だったわけではなく、共有されることが解決法になるという局面が実は案外多いということを、当事者研究を経て気づいた」とあり、何かしらそのような可能性が「みんな苦しい」にあるんじゃないかって気がしている。
みんな苦しいはもっと優しい言葉になれるはずだ。誰かの口を閉ざすものでなく、開かせるきっかけの言葉に。断絶の言葉ではなく、紐帯の言葉として。だって、みんな苦しいでしょう。