よく意味がわかっていないまま、ときおり思いだす歌詞がある。
うえで引用したのは、姉がバイト先で貰ったフリーペーパー付属のオムニバスCDにあった、マシリトというバンドの『カメリア』の歌詞。「アメリカに勝ちたい」という考えがそれまで人生で一瞬たりともよぎったことがなく(それ以降も)、あまりにフリーキーかつ突拍子がなく、手がかりになる文脈も少ないときていて、中学生の俺にはどう受け取ればいいのか分からなかった。ただ、その言葉だけが取り残されてしまった。
本を読み、知識が増え、経験を積むと、だいたいの事柄は既知のものとして処理することができる。ため込んできた経験と知識を駆使してでっち上げることで、だいたいなにかしらの既存の文脈に落とし込むができるようになった。
当時は手が付けようがなかった「アメリカに勝ちたい」というフレーズを、いまの俺は、あえて露悪的な解釈をしようと思えばできるのだ。
そのために「「狂い」の構造」から抜粋。
平山 だけどさ、日本の狂人、狂った犯罪者って、アメリカに比べてスケール感に欠けるのはなぜなんですかね? アメリカって、やっぱやることもでっかい感じがするんだけど。
春日 [……]生活環境の違いは、結構大きい気がしますけどねえ。基本的に、小人閉居して不善をなすわけだし。
平山 日本って、やっぱり死体を捨てるとこも海か山くらいしかないしねえ。
春日 ちょっと変な声を出すと、近所にばれちゃうしね。
日本はアメリカに比べて人口当たりの面積が小さく、その環境的要因で、変態や殺人鬼のスケール感で負けている。なるほど、「アメリカに勝ちたい」とはつまり、世界の関心を一身に集めるような、時代を象徴するような、日本産のシリアルキラーを待ち望んでいる。そのスケールで勝ちたいのだろう。
というのは、露悪的な解釈に過ぎず、世迷言でしかない。中学生の俺もきっと首をかしげるだろう。でも、なにかしらの本を取り出して、都合よく引用してそれっぽく解釈してしまえば、俺は分かった気になれてしまう。
「アメリカに勝ちたい」と目的は明白なのに、勝敗である以上はその分野が前提なのに関わらず、それは不明ときている。しかし、その願望は切実なようでもある。と、全体としてよく分からない。その、よく分からないがゆえに、初めて聞いたときから「アメリカに勝ちたい」という表現丸ごと頭の中に居つづけている。
まったく理解できないことが問題なのではない。まったく意味がわからないなら、不必要なものとして振るいにかけてしまう。文法や表現として平易で、理解が及びそうで及ばない、意味がわかりそうなのにわからないものこそ厄介なのだろう。
ただ「アメリカに勝ちたい」も文字だけならば、おそらく俺は気に留めなかっただろう。意味がわからない言葉なら、俺が俺が書いた文章を読んでいるときによく出会う。 しかし、この言葉は、アメリカを逆さ読みした『カメリア』というタイトルなのにやけに妖艶な歌謡ロックサウンドに載せて歌われていて、そこに声があるせいで、頭に残る。
文字で書かれるとき、声で語られるとき、「意味がわからない」ものの衝撃と余韻に関しては、声が強い。といった内容は、べつに『声の文化と文字の文化』って本にも書いてなかったし、俺にとっての話で。それもあって、俺は好きな詩が少ないのかもしれない。好きな歌詞は多いのに。分かりやすい/分かりにくいが評価の直接的原にはならないが、曲の歌詞は意味がわからないままでノれて叫べるってのは、やっぱ強いんじゃないか。どうなのだろう。
わからないんだ。
「わからないんだ……」
といったような、ダイアローグ/モノローグの妙を音声付ノベルゲームという媒体で演出している『さよならを教えて』という名作エロゲで、俺もよく意味がわかってないことを見切り発車で書いてしまった。でも5年後とかに読みかえすと、自分が書きたかったことがすんなり理解できたりするから、とりあえず俺は書くだけ書いとけ。と思って書かれた。