単行のカナリア

感じて想する

18.THE BACK HORNの応援歌の系譜

 2013年頃に、THE BACK HORNの曲に「OH OH」コーラスが表れはじめたことに関して書いていた。2022年に発売されたアルバム『アントロギア』の曲はより「OH OH」コーラスが増えている。そういう、応援歌の系譜的ななにかについて。

 以下、(消滅した俺の記事から)引用。

新曲「バトルイマ」を聞いて、昨年の学園祭ライブでの山田将司のMCを思い出しました。
 
 「スマートなんとかってあるじゃん? なんか流行っているみたいだけどさ、そんなこといってもスマートに生きられないって。夢に向かって進むときにスマートさなんて役に立たないし。泥まみれで血反吐吐いてでもいいんだから、絶対にくじけないでほしい。生き延びてまた会おう
 
 と、今回の新曲の「バトルイマ」の歌詞を彷彿とさせるMCでした。学園祭ライブということで、ほぼ学生で埋め尽くされた会場だからか、山田将司にしては珍しいくらいに熱く語っていたのを覚えています。
 
 それから、一年後の新曲が山田将司作詞作曲の「バトルイマ」です。 
 初めて聞いたときの感想は、タイトルおよび歌詞のストレートさといつも以上に癖のある歌い回しのギャップが面白いってのと、それからコーラスが多くて熱い、でした。

 一言でまとめるなら「バトルイマ」は応援歌。ただいつものと応援歌と異なり、「バトルイマ」と過去の楽曲との異質なところが特徴的なコーラスでしょう。
 
 これまでの楽曲でこれほどに積極的にコーラスを取り入れた曲はありませんでした。しかも「バトルイマ」のコーラスは、ライブで観客との掛け合いになること間違いなしで、そもそも「共に歌う」ことが想定されているように思えます。「無限の荒野」、「シリウス」など観客との掛け合いとなる曲はこれまでもありますが、ここまで意図的にコーラスを誘っている曲は「バトルイマ」ならではでしょう。

 この「歌わせる」というのが、「バトルイマ」の特徴で。
 
 「バトルイマ」はまぎれでもない応援歌でありますが、応援するのは演奏者だけでなく当事者である自分たちも、といった感じ。「バトルイマ」はTHE BACK HORNのテーマの一つである「共鳴」の要素が非常に高い曲に感じました。そして、それは自然発生的な共鳴ではなくて、積極的に観客を巻き込んでいく共鳴になります。

 ここで、過去の応援歌を振り返ると、ライブ定番曲の「無限の荒野」は俺への応援歌でした。というか、あの時期のTHE BACK HORNは当事者としての葛藤を歌っていました。それから、徐々に観客に向けての楽曲も増えてきて決定的だったのが「戦う君よ」です。タイトル通りに「君」への応援歌です。この曲はライブでマイクを観客に向けて、共に歌わせようとしています。それから、ついに今回の「バトルイマ」は皆への応援歌というわけです。
 
 さらにいえば、THE BACK HORNの「戦う」が指すのはあくまで自分であって、その戦場は自分の心といったニュアンスが多かったですが、「バトルイマ」では心を含めた現実そのものといった読み取れます。「バトルイマ」はタイトルのストレートさからいって、過去の応援歌のなかでも現実的で率直なものになっています。

 『バトルイマ』以降、いわゆるOH OHコーラスが取りいれられた曲の割合は増えている。楽曲中ではボーカル含め他メンバーがコーラスを担当するが、ライブでステージの上で歌われているときは観客もまた思い思いにコーラスに加わることになる。

 

 おそらくだが、このような変化があった理由のひとつには、ボーカルの山田将司の切実な事情があるのだろう。彼は急性声帯炎、声帯結節となり、全国ツアーを延期、ポリープ切除の手術を受けた。それ以前、これまで俺が行ってきたライブでも喉の調子が悪く、かすれ声で歌いあげていたことや、声が出ず観客にマイクを向けて歌ってことが少なからずあった。彼がインタビューで喉についての悩みを吐露することが増えていった。そもそもが、特にTHE BACK HORNの昔の曲に顕著だが、「シャウト」ではなく「がなり」と呼んだほうが適切な、声帯を酷使するボーカライゼーションの曲が多いときている。無理が祟った、などの軽薄なことを書きたいわけではない。以前からのこのような状況、そして決定的な手術があった。それが、いまのOH OHコーラスが増えていった切実な理由のひとつかもしれない。ただ、あくまでそれは理由の一つであり、外因を推測すればの話にすぎない。

 変わる、というのは不思議な言葉である。ゆっくりと細胞が入れ替わっても人はそれで変わったとは思わないが、一日で眼鏡からコンタクトし髪を金髪に染めた人を見れば変わったと思うことがある。変化は、何を変数にするかで、その判断は異なってくる。今回の変化は「OH OH」コーラスについてで、これは明らかに増えたと言える。

 かつては、暗闇のなかで世界を怒鳴りつけるようにがなっていた。そして、現在は生き抜くという旗を掲げて皆と声を重ねて歌うようになった。THE BACK HORNが主題としつづけてきた共鳴の在りかたは、より間接的な共鳴から直接的な共鳴ほうへ、また応援歌の在りかたは、私的なものから集団的なものへ変わっていった。その変化の例のひとつして、『疾風怒濤』ではサビで、山田将司とコーラス・シンガロングパートの配分が同程度になっている。 


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 俺は、最近のTHE BACK HORNの曲も好きだ。すべてではないし、好きじゃない曲もある。ただ最近の「OH OH」コーラスある曲は好きな曲が多い。最新アルバムの曲『ウロボロス』なんか最高だろう。「OH OH」からはじまり、リフが無機質な弦楽器の電子音に驚き、サビはいつものTHE BACK HORN感が色濃く刻まれたメロディーが発現し、唐突な「先生、最近夢を持てって言わなくなりましたね」の台詞にドキっとさせられる。 らしさがある。 


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 THE BACK HORNの『ユートピア』で「何が起こるか知れない日々は 良いことだって起こり得るはずさ」、「ああ 堕ちてゆく 真っ逆さまも 見方を変えれば急上昇だ」 と歌われる。主張そのものを取りだしてしまえばめずらしいものではない。「自分を変えることで世界が変わる」と言い換えてしまえば、自己啓発本でだいたい語られるもので、いってしまえば認識論的詐術の一種だろう。(これは『生命線』の頃からだが)

 だから主張そのものを取りだしてはいけない。これらの言葉は歌詞であり、歌詞である以上は、歌われているのだから。山田将司の力強い声で。想像することできないほど過酷の旅路のなか、ずっと多くの人たちを励ましつづけてきているその声で。

 THE BACK HORNは「生き延びよう」「また会おう」と曲にしつづけてきた。もうだめかもしれないという一日を、今日だけは生きる。今生きているのは一日の生、一瞬の生を延ばしつづけてきた結果だ。たまたま今日はうまくいって、生き延びた。それがたまたま繰り返されて、今日まで生き延びることができた、と。

 その先には? 『シリウス』の歌詞に登場する「ブラックスワン」とは、前にほとんど予想できず、起きたときの衝撃が大きい事象のことだろう。黒い白鳥は音もなく舞い降りてささやかな日々に終わりを連れてくることもあれば、そうでないかもしれない。よく分からない。この不確実性に満ち溢れた未来、とはいえ大体よくない黒い白鳥がやってくるだろう未来。今日だけで精一杯なのになんと明日も今日がやってきます。明後日も、死明後日も、死ぬまでずっと。そうは歌っているが。俺はもう一日たりとも睡眠薬なしでは眠れない。抗うつ薬はもう限度量まで処方されているのに、不安、不安、不安で頭がいっぱいになってばかり。それらがないと、ただ人間が機械よりコストがかからないという理由で、かろうじて残存している労働ですらまともにこなせない日もある。これから先、起こり得るいいことはきっとあるだろうが、あったところで、それ以上に起こり得るよくないことに埋もれて見えないのでは?とすら思ってしまう。

 でも、常にそうってわけではなく、今日みたいに、過ごしやすくて外側の出来事はなんかもう全部いいかんじで、部屋をすこしだけ掃除できてさらに洗濯できた日なんかには、「良いことだって起こり得るはずさ」という声が聞こえてきたらそうかもしれないと思うこともあるだろう。特にその声が、その山田将司の力強い声だから尚更。今日はもうきっと大丈夫と。いつもよりすんなり眠れることができる日が。

 生き延びる、また会おう。俺がTHE BACK HORNの応援歌といえる曲を聞いて感じるのは、これらのメッセージを届けようとする意志の強さだ。その先には? その先で、またTHE BACK HORNのいい感じの新曲が聞けるかもしれない。「良いことだって起こり得るはずさ」に含まれる「良いこと」の一つは、そう曲にしたバンドのいい感じの新曲を聞けることに違いなく、それで俺は、もうライブはできるだけ通うようなファンではないけど、これから先良いことがあるなんて騙されているようにしか思えない日々を過ごしているけど、それでも俺は嬉しい。