単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

21.手帳

 だいたい四つのことを書きました。

  • 精神障害者保険福祉手帳を手に入れた
  • 三級といえば三級
  • そのデザインがなんというかどういえばいいのか
  • 障害を社会的モデルで捉えると、俺はコロナ禍で健常者側へ振れた

 手帳は二〇二一年に申請して年内にゲットした。

 「自立支援医療制度を申請したいのですが……」

 「それなら同時に申請できる精神障害者手帳の診断書も書きましょうか?」

 「え? ああ、じゃあ、お願いします」

 俺は「精神障害者保険福祉手帳」を手に入れた……のだが、経緯が上の会話のとおりで、手に入ってしまった、と書いたほうが正しい気がしてならない。診断書を書いてもらい、それを持って役所に一回行っただけで、三か月後には郵送で手帳が送られてきた。そもそも自立支援医療制度を申請するために市役所に行かなければならなかったので、手帳収得のためになにか手間が増えたわけでもない。

 そのためか、手に入ってしまったと書くのが相応しい気がする。俺の場合は。気が付けば、俺は精神障害者となったもんだから、いまだにしっくりとこない。もしあのとき担当医が俺に尋ねかったならば、俺はきっと取得していなかっただろうし。

 

 手帳と一緒に送られてきたしおりによると、「精神障害者保険福祉手帳の障害等級の判定基準について」は三級の基準は以下のようになっているらしい。

障害の状態:日常生活若しくは社会生活が制限を受けるか、又は日常生活若しくは社会生活に制限を加えることを必要とする程度のもの

 それならば、俺は精神障害者三級に当てはまるだろう。俺は高卒で職歴の空白期間が長く、ストレスの負荷がかかると途端にパニック発作を起こす。数え間違い、覚え間違いといった発達障害に該当する特質を持っているし、それに加えて、機能不全家族の二次障害みたいな適応障害をいまだに患っている。いまでこそ身体的な症状は少なくなってきたが、一時期は玄関にたどり着くことができなかった日も多かった。現在は運がよく職場が俺に合っていて安定しているからどうにかなっているが、先の見通しは悪い。大工の手元をやっていたことがあって、そのとき、肉体労働と見なされている大工がいかに正確な数字の取り扱いを要求されるかに驚き、諦め、工場で同じ個所にインパクトドライバーだけでネジを締める工員ですら、その反復行動にどれだけ精確な身体コントロールが必要なのかに驚き、挫折し、俺が勤められる職は世の中には非常に少ないのだとわかった。社会学者の岸政彦は『断片的なものの社会学』で、四年間肉体労働をしていた頃を振りかえって「決められた時間に現場に入り、単純な重労働を我慢してやっていれば、そのうち五時になって一日の仕事は終わる」、「肉体労働は、体というより感覚と時間を売る仕事だな」と書いていたが、そこで言われるような「単純」な重労働は俺にはあまり多くはなさそうだ。ただ俺が知らないだけだろうが。しかし、それすらも、これから先は減っていく一方だ。(と思ったが、最近になってコツコツやってた筋トレの成果がでて腹筋ローラーで立ちコロできるようになったので、体力的な問題は先延ばしできそう。そもそも問題はいつだってメンタルのような。)

 

 話を戻して、俺には精神障害者手帳三級のメリットはあまりないっぽい。一年ほど経つが、使ったことはない。美術館や博物館などの公共施設で手帳を提示すると無料になったり割引されたりするらしいし、ほとんどの映画館が、俺は使用したことはないのでよく分からないが、あとで書く理由で持ち運んだことはない。

 このように、なんとなく、気づいたら俺は精神障害者だった。

 なんとなくそうなってしまった俺は、障害を説明するときの「社会モデル」は分かりやすくもっともらしさがあり、これは一般的な考え方になってほしいと実感した。社会モデルについては、『この国の不寛容の果てに』の言葉を借りれば、「「障害」とは個人の皮膚の内側にある性質ではなく、皮膚の外側、つまり社会のありかたに起因する」というようなもの。俺が最近ハマってる小坂井敏晶っぽい書きかたをすれば、「個人に障害が内在されているわけではなく、個人と社会が関わる場において発生する困難さが、個人に帰属させられる社会の在りかたに起因する」、と捉えることだろう。そう捉えると、自閉症スペクトラム障害という言葉のスペクトラムが示すように、これは程度の問題であり、どうやら俺は社会生活を営むときに不便さの程度が人よりやや高い、だからときに支援が必要になるかもしれない、という分かりやすい話になる。(程度の問題ということは、つまり、全員が少なからず障害者であり、そうである以上はたとえば全員を程度によって級に振りわけ、その級に沿ってリソースを割り当てる量を調整するようなこともできそうが、リソースは無限ではない。現在の基準で健常者となっている人は、いわば精神障害者五級である、みたいなスペクトラムの要素を重視した考え方が障害の社会的モデルの本質であると理解している。違いそう)

 

 そして本題へ。冒頭にある画像(背景の本はたまたま近くにあっただけで他意はまったくない)を見て欲しいのだが、兵庫県精神障害保険福祉手帳のデザインがあまりにダサい。他県の手帳に比べると、たとえば、この文章を書くときに参考にした記事の横浜市の手帳と比べると、兵庫県のはずば抜けてチープな印象を与える。県内でも自治体によって変わることもあるらしいが、少なくとも俺が受け取ったのはそうだった。

 もちろん、評価する指標は手帳のデザインなんかではなく、福祉行政サービスの活動内容にあることは理解している。そのデザインは経費削減のため、と返されればもう俺に返す言葉はない。が、それにしても、このデザインはダイソーで材料揃えればすぐに作れそうなチープさがあって、それがどうも、なんというか……。

 精神障害者というのは、ただでさえある種のスティグマで見られがちなのだから、その証明になる手帳のデザインはもっとこう、他の自治体のように表紙に印字されている手帳型のようなものとか、そういう公的証明書感があれば、もしくはカード型だったら、と思ってしまう。それでデザインについていろいろと調べてみたら、神戸市がミッフィーが描かれている手帳カバーを企業とコラボして配布していたらしい。「外出時等に明るく前向きな気持ちになれるデザインとなっています」 そう、そういうの。分かってるじゃん。じゃあなんでこのデザイン?とも思う。  

サイトから引用

 

 精神障害者手帳は二年ごとの更新が必要らしい。俺はここ一年を振り返ってみて、特に使用する機会がなかったので、次回は更新しないつもりでいる。そもそもが「ついで」だったから、個別で申請しないといけなくなったら、おそらく面倒になってやらないない。

 すると、俺は精神障害者になったり、精神障害者にならなかったりすることになる。

 俺はたまたま手帳を手に入れてそうなったが、手にすることなくそうならなかった人も多いだろう。だいたい境界線上では似たような位置にいたとしても、そして、コロナ禍という急激な社会状況の変化は、俺を少しだけ健常者の方へ近づけた。なぜなら社会的状況が、俺が相対的に生活しやすいように変化したから。もとから冬はマスクを防寒具として常に着けていたし、マスク着用(と耳栓)が義務化されている職場も少なからずあったし、アルコール消毒もブームになる以前から好きでやっていた。アルコールの臭いが好きだったという理由でだが。決定的なのが、人込みが苦手で、外で人と会食することはめったになかったこと。すでに自粛していたようものだった。ここ数年は、休日はノベルゲームをやるか、甥っ子とオンラインゲームで遊ぶか、本を読むことばっかりだったし。そんな俺は、コロナ禍によるストレスが比較的少なったように思える。障害を社会的モデルと捉えたとき、社会的状況が俺により適応しやすいものだったから、俺は精神障害者から健常者の方へ近づいたのだった。スペクトラム上で少しだけ。そして、今年が更新年で、俺が面倒になったら健常者になりそう。そういうものとして捉えている。俺の場合は。そういうケースもある。

 

 と十分に優等生的な書き方をしたのでもうここからは本音を語っていく。あの、ほんとデザインがよくない。俺が精神障害者手帳を受けとって「ダサすぎる」の思いが強すぎて、他に感慨が浮かばなかったくらいで。手帳は首から紐でかけられる利便性があるが、そうするより、俺が首を紐でくくるほうが可能性は高い。とかの嫌味なジョークを書きそうになるくらいダサい。俺だけではなく、知り合いに療育手帳を持った子がいて、その子も「ダサいからなんかいやや」と言っていた。そもそもがそういうものならば気にしないが、どうやらほとんどの自治体は「手帳」らしいデザインだから、ついそう思ってしまった。ミッフィーとのコラボの試みはすばらしいし、「外出時等に明るく前向きな気持ちになれるデザイン」のために、なんかうまいこといって、藤本タツキ林田球、デザインといえば何より弐瓶勉とのコラボカバー出ないかなとか考えてた。でも、そのためにリソースを割いてほしくはないから、まあそれだけ。