単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

22.思考パタン

 読書感想文が書きにくいのはフォーマットを知らないからであり、自分の感情を語りにくいのもそのフォートマットを知らないからである。

世界が同一構造の繰り返しだから比喩が有効なのではない。人間の思考パタン、世界を理解するためのカテゴリーが限られているからです。

社会心理学講座

 パタンを知ってしまえば、なにかしら書ける。その文章が良いか悪いかは分からない。おそらくよくない気がする。ただ自分にとってより正しいので、それならばそのように書くといい。と思う。

 修士課程の学生を対象に行った講義をまとめた本を読んでいる。『社会心理学講座』という本。非常に難しいが、かっこいい。もう別の本も買っていて、読むのが楽しみである。いつか俺の言葉になるようにゆっくりと丁寧に読んでいる。意識しつづけるとわずかばかり近しいようなことを三年後くらいに書けるようになる。大学では俺は「パターン」を「パタン」と表現するなにかしらの学問の体系を学びたかったのだろう。計算にはめっぽう強いが数字に弱いのに、理数系に進み、目標ラインのセンター九割など取れるわけもなかった。数回は取れて、A判定がでて、まあいけるだろうと勘違いしたのは過ち。また、二次試験で、数字を見間違えて座席をまちがえたことは俺のミスで、それを試験官に指摘され動揺しすぎたのは俺の弱さだが、その座席の人がたまたま欠席していたことは運が悪かった。三角関数は得意で、英語はだいたい満点近くで、センター試験の過去問にでてきた「僕のかぐや姫」に感動をして古本屋を巡って買ったことがある。まあでも、あの頃に別の道に進んだところでそう変わりはしないのだろう。というか、そう思うことでしか、許することが難しい状況があった。

 

 俺の数百倍は頭が良さそうなことを書いている人が「おれは頭が悪い」と書いているを見ると、だとすれば、その人より明らかに頭が悪そうな俺はどれだけ頭が悪いのか、と思ってしまうが、そういう他者間の比較ではないのだろう。俺の人生にとって俺は頭が悪い、といった個人に限定した話なのだろう。

 職場で「その言葉ってどういう意味?」と尋ねられることがたまにあって、どうやら語彙力に関しては同僚より俺は高いらしいと知る。ただ、語彙は、頭の良さと同義ではない。頭の良さの構成要素の一つではあるかもしれない。以前、ロールシャッハテストやバウムテストなどの心理テストを受けたとき、WAIS知能検査も受けた。結果、動作性と言語性に偏りがあるものの全体の数値としては百二十後半くらいなので問題なさそうです、となった。その数値もまた頭の良さの構成要素の一つかもしれない。

 が、俺はやっぱり頭が悪いし、そのせいで、大きな挫折(とか呼ばれるの昔は許せなかった。挫折に含意されている能動的な要素が気に食わなかった。今は違うし、そう)を味わった。「俺は頭が悪い」以外はありえない。

 半匿名のインターネットでさえ、当時は気持ちの整理がつかず、自身が高卒であることを書けなかった。強烈なコンプレックスだった。それも過去の話で、いまでは、死にたいとか、死のうとしたときに市販薬ODは一通り試したとか(ウットで人と電話したことの健忘を起こしてから一切やめた)、手帳を手に入れて精神障害者になったとか、いろいろなことを明け透けに書けるようになった。どう思われてもいいとまではいかないが、書きたいことは書きにくいことの中にあるせいで、そればっかについて書いてしまうし、それを書くことが俺に推奨されている。

 自己像がシンプルになった。親がこねくり上げた自己像をようやく壊しきれて、まあ俺はこんなもんだろうという、妥当な落としどころを見つけることができた。何者にもなれないとかは、俺は「〇〇になれ」と目の前にある人参を追わされつづけてきたせいか、全然考えたことすらなかった。適切でシンプルな自己像はとてもいいものだ。生きにくさと生きやすさのレースにおいて、生きやすさがかろうじて一周差をつけられていないのは、身の丈にあった自己像を背負うことができたから。誰も俺に期待していない。俺も俺に期待していなくて、それで気持ちが楽になっている。 

 俺がこれくらいはインターネットで書いていいだろうの基準は、G.A.Wと関内関外日記が基準で、それはつまり、大体のことは書いていいということである。

 いろいろと変わった。死のうとしたとき以降、加速的に変わっていった。変わっていくのが嬉しかったから、向精神薬による自己同一性の揺らぎは悩みにならなかった。むしろ歓迎し、よくない方法で加速させようとすらしていた。

 

 さて、これからは俺はどうしたいのだろう。もうだいたい書きたいことは書いてしまった気がする。とはいえ、書きかけの記事はすべて形にしたいから、しばらくは続くだろうけど。

 なにかしらのクローズドコミュニティでわいわいやりたい気持ちがある。2割くらいの趣味が合う人達、「あなたを選んで生まれてきたよ」とは絶対に言わない人達、俺が暗くなっても「また、やってる」と無視できる人達と。そういうの求めていたのかはわからないが、ブログやってないときにVtuberの公式配信を観るために入れたある配信アプリで、たまたま仲良くなった人たちのグループがあった。朝までディスコードで通話して他愛もない世間話とかしていた。年齢はそれぞれ。趣味もそれぞれ。ある時期を境に、俺も含めみんな、少しずつ疎遠になって、急に「もうそろそろ終わり」と示し合わせように離れていって、もう関わりはない。そういうとこもまた気が合った理由でもあるのだろう。

 ツイッターの鍵垢になってしまった人はネットの対人関係の「上がり」に違いない。アカウントを作り直して鍵垢になったあとで、フォローしてもフォローが返されると確信しているような、それなりの関係性を築きあげている人たちはすごい。はたして俺が当時ツイッターをやっていたときにフォローしていた人を、いまアカウントを作り直してフォローして返されるのはどれくらいなのだろうか。趣味の話より、自分の話ばかりするようになったし。もうあと少しで、趣味の話に戻るが。

 

 俺、孤独耐性が病的に強く、人生で一度たりとも「寂しい」と思ったことがないような人間ではあるが、人と関わる楽しさもよく知っている。というか、本や漫画などが好きすぎるだけで、人との関わりが優先順位が低いだけなのだ。人の話を聞くのが好きで、人の書いたものを読むのが好きで、それが暗い話ならよりいっそう好きときている。人の愚痴聞くの好きすぎて、甥っ子の家に遊びにいったときに姉に「なんかない?」と聞くくらいなのだ。夫との情事についての愚痴を聞かされたときはさすがにそれは違うとなった。

 

 こう書いて気づいたが、「何者かになりたい系承認欲求」と「孤独」という人によってはわりと深刻な問題が俺にはない。いずれ立ちふさがるかもしれないが、想像すらできない。それでも尊重はできる、と思う。理解されないことの辛さ、説明することのしんどさはよく知っているから。 

 最近は、お互いのダメなとこを知っている集団の中で、まあtwitterの鍵垢で構築されるネットワーク的なもので、あーだこーだ適当なこと言いたい気持ちが高まってきている。ブログのアクセス数的には今でもそのようなものだが、やはりクローズドコミュニティの気楽さというか、肩の力を抜ける感はブログは違う。求めているのは、相互扶助グループとか当事者研究とか、なんかそういうのに近い。最近になってブログで言及すると相手に表示されることが最近分かって(俺はまったく気にならないし、むしろ嬉しいが)、俺は某ブロガーに何度もしつこく送っていたことになったのと申し訳ない気持ちになった。この機能やめろ! せめて送る側に選ばせてくれ! てか事前に知らせろ!!

 俺がその最近の願望を叶えるためには、アカウントを作り直して鍵垢になったあとで、フォローしてもフォローが返されると確信しているような、それなりの関係性を築く必要があり、そのことにやや前向きになっているが、特に何もしていない。だから何も変わらない。