単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

土か煙か、自死か路上か、または医療保護入院か脱法ドミトリーか、刑務所か、食い物か

 この先いったいどうなるのだろうかと考えていたとき、「自死か路上か刑務所か」という言葉を目にして深く納得したものだった。いずれ、まあ運が悪ければ数日後にでも、そのような末路を辿るのだろう。(上の言葉は関内関外日記でよく出てくるもので、そのブログが好きすぎて何度もリンクを張って言及していたが、そうするとアクセス解析に表示されると知り、その欄がこのブログで埋め尽くすのよくないのでリンクは張らない)

 ただ、『ホームレス消滅』という本を読んでからは、成れの果てが路上になる可能性は想像以上に低いのかもしれない、いやどうなのだろう、とはいえ自分はそうなってもおかしくない、しかしどうだ、などと思うようになった。

 『ホームレス消滅』はそのタイトル通りに、近年、ホームレスが減少していることについてデータで語られている。

 本によれば、

 2019年1月1日現在で東京都には1385万7443人がいる。一方、減少の一途をたどるホームレスは、同年1月現在、東京都には1126人しかいない。東京の人口に対して、わずか0.01%以下。まさに"絶滅危惧種"といえる。

 1126人。多いのか、少ないのか。いまいち分からない。2020年の東京都で精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている人は約11万8千人で、同年同所の自殺者は2013人とある。それと比べるとホームレスは少ないといえる……のか? 当然ながら、この数字は確認されているホームレスのみである。だとすれば多いのか?

 全国のデータも載っていた。

 2019年1月時点で、日本全国で4555人のホームレスが確認されている。

 とはいえ、年々、ホームレスが減少している事実は疑いようがなさそうだ。2003年にホームレスの実態調査が開始され、そのとき大阪府が4911人、東京都は4690人とあった。何気に大阪のほうが多く「西高東低」という現象が見られるようだ。

 土地によっては、減少傾向が著しいところもある、台東区に限定すれば、ここ十数年で、1103人から61人と大幅な減少傾向がある。

 

 これに関しては、全国で施行されているホームレス支援事業が功を奏しているようだ。また、「排除アート」に代表されるように、ホームレスを排除する社会的環境の影響も無視できないだろう。日本はどうやら『ホームレス消滅』社会に向けて着実に進展しているようである。だからといって数千人の一人にならないだろうとは到底言えない。やはり「自死か路上か刑務所か」だ。あまりにしっくりくるものだから、つい自分の中から出てきた言葉のようにすら思える。

 

 新参精神障害者の身としては、末路が精神病棟の可能性も高そうである。というのも、もし家族が存命で、精神状態に異常を来たしてしまったならば、医療保護入院させられる可能性がある。

 医療保護入院について、『ルポ・収容所列島―ニッポンの精神医療を問う』によると、

医療保護入院精神保健福祉法が定める強制入院制度の一つ。本人が入院に同意しない場合に、家族など 1 人の同意に加え、同じく 1 人の精神保健指定医の診断があれば、強制入院させることができる

 一人の家族と一人の精神保健指定医の同意のみが条件のようで、人間を拘束することに対しては基準が緩いのではと感じる。そして、この本では、じっさいに恣意的な運用が行われている現状を糾弾している。その最たる例として、この制度を利用して、係争中の配偶者を医療保護入院させるケースが語られていた。また、親が過食症で悩んでいた思春期の子を医療保護入院させたケースもあった。それくらいで?と思ってしまうが、そもそも条件が条件だけに、それくらいで運用されてしまうケースもあるのだろう。

 

 また、路上でもなく精神病棟でもないときの末路として、タコ部屋のような収容施設、脱法ドミトリーなども考えられる。

 同じく『ルポ・収容所列島―ニッポンの精神医療を問う』で、生活保護者を囲い込み、タコ部屋に押し込んで搾取する、という貧困ビジネスの話があった。

厚生労働省の調査によれば 2018 年時点で、全国 569 施設に 1 万 7000 人が入所、そのうち生活保護受給者が 1 万 5000 人に及ぶ。法的位置づけのない無届け施設も加えると、入居者数は 2015 年時点で約 3 万 2000 人となっている。

 この法的位置づけのない無届け施設が、上の住居に該当する。差し伸べられた手にすがりついてしまった先が、一つの部屋をカーテンで仕切り、二段ベットが敷き詰められた、現代のガレー船のような部屋だった、という可能性。もしくは、経済的理由から、ネットカフェの料金が支払えず、住宅を宿泊施設に転用した脱法ドミトリーと呼ばれる類の宿でその日暮らしを余儀なくされる可能性もある。もちろん、行政に拾われて、マンションや都営住宅を借り入れた住居に住める可能性もある。どのくらいは分からない。聞こえてくるのはそうでなかった話がほとんどなので。

 

 『死体格差』という本では、病院で息を引き取って綺麗な死体と、部屋で野垂れ死して蠅に食い散らかされた死体を比較し、死体にも格差があると書かれていた。自死を除けば、経済的な余裕がなければ、どこで死ぬか、どのように死ぬかを選ぶことは難しい。「自死か路上か刑務所か」、はたまた精神病棟か、脱法ドミトリーか。それらの可能性は高い。けっして真似しているわけではないが、高卒、精神障害者、ほぼ絶縁状態の両親、先行きが不透明な職場、という抜き差しならない状況に立たされている身としては。。

 

 末路について想像してみるとき、俺には聴覚過敏の気があるから、人口密度が高い住居は俺にはしんどそうだ。期間工のときに住んでいたところは、ベニヤ板一枚で部屋を二つ仕切った個室だった。MOLDEXの耳栓をつけていても他人の生活音(特にビニール袋のがさごそ音)が不愉快極まりなかった。たった一人が側にベニヤ越しでいるだけでしんどかったのに、それが多数となると死んでも嫌だ。死ぬのも嫌だ。

 以下の画像は、その期間工のときに撮ったもの。だいぶ前の話で、今どうなっているかは知らない。べニア手当三万は、べニア板で仕切っている部屋の苦痛代を寄こせってこと。 

ベニヤ手当3万円欲しかった

 死にたいと嘆きつづけた母の隣にいた頃から、死について飽きることもなく考えている。死についての本を読むのが好きだ。死について、死ぬまでの話、死ぬときの話、死んだ後の話とか、死には話題性がある。舞城王太郎の『土か煙か食い物か』というタイトルは、人間の死後どうなるかについての末路の選択肢(選択はできないが)についてだ。当時は食い物になることは少ないのでは思っていた。しかし、年々、蠅とウジ虫に食われる可能性は高まっている。状況は際限なく、どんどんどんどん悪くなっていく。

生きてても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなにたくさんお金儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてまうんやで

『土か煙か食い物か』

 

 青葉市子の『いきのこり●ぼくら』という曲で、鳥葬の風景が歌われる。峡谷に落とされた死体が鳥に啄まれて白骨化する風景、現実に待ち受けているだろう、汚い部屋で蠅にたかれて腐敗して赤黒い染みになっていく風景、死を選ばないと何に食べられるかは選べない。だからといって、死を選びたくはない。

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 「毎日の風景/ずっとつづくね/慣れなきゃ/慣れなきゃ」の部分がほんとによくて、慣れなきゃ慣れなきゃとぶつぶつ呟いているとすこし心が落ち着く。関西、東京、九州と各地を転々としていて、住み込みも寮生活も何度か経験したことがあり、環境の変化に慣れている方だと思うが、果たしてどのような環境にまでそう言えるのかは分からない。もうあまり苦しみたくないのだが。