単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

初めて読むアナキズム『大杉栄伝 永遠のアナキズム』

 

 おれはアナキズムについて書いていたブログをよく読んでいるが、アナキズムについて書かれた本は『大杉栄伝 永遠のアナキズム』が初めてになる。

 冒頭で、百年前の米騒動の話が出てくる。ここまで狂乱のパレードがあったとは知らなかった。大阪では、日本橋から心斎橋にかけて、数千人の群衆が「米を安く売れ」と店に詰め寄り、拒絶した店には火を付けて回る。消防隊がきたら邪魔をし、軍隊が威嚇射撃しても止まらない。しまいにゃ、倉庫や店舗を手あたり次第に破壊してまわり、ひとのいない交番をみんなで横倒しする始末。ざまーみろと拍手喝采。むきだしの欲望の直接行使。生身の感情の表現。すべての店主がしっぽ巻いて逃げだすほどのリアル。これが千九十八年、およそ百年前の出来事というのだから驚いた。その米騒動において、大杉栄伝は面白そうだからと見学しにいき、騒動をあおるために新聞社をまわってデマを流す、すっごい楽しそうで、そこに社会動員のイメージの着想を得たという話だった。

 

 アナキズムを知ったきっかけの某ブログでたびたび引用される一節がある。 

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ

 どのような文脈の言葉かといえば、大杉栄伝が米騒動でみた民衆芸術のイメージを労働運動にもちこもうとしたときの雑誌への寄稿文の一節のようだ。障害者運動しかり、環境保全運動しかり、本で紹介される労働運動しかり、運動のもとに群衆を動員すると、そこに音頭取りが現われてしまう。指導者が選ばれ、権力構造が生まれる。それはよろしくない。指導者なんていらない。とはいえ、指導者がいない、自発的な運動というのはなかなかに困難で、大杉栄伝もボルシェビキ社会主義者らと連帯したり、決別したりと紆余曲折を経たようだ。だからって、理想と実践の擦り合わせというほどではなく、気ままにアナキズムの理想にまい進している。その中核にあったのが「みんなが勝手に躍って行きたいんだ」というイメージで。それを米騒動の中に見出したとある。

 大杉栄伝のアナキズムの思想を解説するとき、「生の無償性」という言葉がでてくる。

ありふれた生の無償性。他人のためになにかしてあげたいとおもうこと、ほどこされたものをありがたくうけとること、決して恩を返そうとはおもわないこと、自分がたのしいとおもうことだけをやってみること。なにも考えなくていい、なにの役にたたなくていい。それでもわきあがってくる、やむをえない生のうごめき。それが自由だ。

人間はまわりに承認されたり、報酬をもらったり、なにかを所有したりするために生きているのではない。人間はただ自分の力を高めるために生きている。それが喜びであり、誇りであり、個性であった。

 この「生の無償性」とやらが、国家や資本家や社会構造によって阻害されている。それをぶっ壊そう。ありふれた生の無償性をおれたちの手に取りもどそう。これがアナキズムの思想らしい。そう、おれは理解した。明確な敵がいて、その敵との闘争が繰り広げられる。そういう敵がいた時代だったのだな、と強くかんじた。現在では、『資本主義リアリズム』という本にあるように、社会構造そのものの機能に組みこまれ、敵が見えない。誰が言わずとも自己責任論を内面化し、生活はもっぱら生産性の向上に向けられ、生まれてきたという負債を返済しようと躍起になる。返済能力こそが、人間の価値の多くを占める。だから、国家や資本家の部分を破壊したところで、全体の恒常性はビタとも揺らぐことはなく構造は維持されたままで、ただ人員が入れ替わるだけ。構造を解き明かし、自覚的になることが、「反抗」のような運動になってしまう現在は、米騒動からはもうずいぶんと距離が遠いのだろう。資本主義は倒すものではなく逃げるもの。あるかないかわからん出口を探しつづけて、暗闇のなかでドアを叩きつづけるしかない。そのせいで、いまはドラムンベースを流しながらフロアの中央でぶつぶつ訳わからない言葉を発することが運動になったりしている。これは加速主義の実践家の話。『ラディカルズ 世界を塗り替える<過激な人たち>』は「現代版アナキズムの亜種といえるなのかどうなのかはよく分からない。

 

 それにしても、読んでいておもしろかったのは大杉栄伝の破天荒のエピソードだ。女性関係で仲間と疎遠になったという人間臭さ。臨死体験を何度経てもひたすらに理想を実現すべく行動しつづけた胆力は圧巻。あと金は他人の懐から無限に湧いてでてくると思っている節がある。なんというか、人生を賭けつづけている。自らが掲げるアナキズムを体現したかのような生を送っていたようだ。終わり方は寂しいが。

 生まれて初めて読むアナキズム。その理論のベースになる、フォーディズムからはじまる資本主義の考察あたりは現代思想のそれとあまり違いがないのに、社会情勢がまるっきり違うからやってることも全然違う。運動に命を賭けて、みんな次々に死んでいく。その背景には、当時流行していたスぺイン風邪の流行があり、そもそも死が身近にあったという考察は納得がいくものだった。

 命を活かしきってるなあ、かっけえなおい、とかだいたいそんな感想になる。米騒動あったら参加したい。いまのあの狭い心斎橋商店街の店を破壊してまわるのってとても楽しそう。みんながおのおので踊って、ときにリズムが重なり合わされ、巨大なうねりとなって生の無償性を取りもどす。自らの生を自らのために高める。そうすることで、他者とゆるやかに繋がり、施し、施され、命を活かしきることができる。でも、なんかそんな感じの世の中じゃなくて、過去の歴史として読んでしまったのがなんともいえない。恐れはなく、ただかっこいいと思ってしまったことこそがその証明だろう。かつて確かにあった一つのむきだしの生。あくまでアナキズムの一端。

 で、この本を読んで気づいたけど、無期限活動休止したTHE★米騒動ってバンドの米騒動ってこれのことかと思いきや、別にそうでもなさそうだった。


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