単行のカナリア

感じて想する

長年の謎が解けたときのすがすがしさ(と、次から次に謎を生み出す自分への苛立ち)

 Q.なぜ感想が書けなくなってしまったのか

 A.ずっと連想ゲームをやっているから

 

 ここ数年、何度も「感想が書けない」といったことを書いていた。正確にいえば、ある作品の感想を別の作品を持ち出すことなしでは書くことが難しい。ある作品固有の、その作品のみと対応する感想というものが、書くことができなくなってきた。

 その状況を参照の合わせ鏡とか、参照のミラーハウスとか表現していた。本当に、感想を書くのが難しかった。下手すると、かりにAという作品の感想を書いたあとに読みなおしたとき、BやCという作品についての文章量のほうが多い、なんてこともあった。

dnimmind.hatenablog.com

 で、なぜだろうと、五年前ぐらいから考えていたが、分かってみればなんてことはなく、おれがずっと高速連想ゲームをやってしまうせいだ。本や漫画などを読めば読むほど、連想の対象が増えて、その傾向が加速していってしまっていた。同じく、なぜあの人は一つのことを書くことができるのだろうといえば、その人は脳内連想ゲームをあまりしていないかもしれない。(もしくは書いたあとに文章の八割くらい削って整えている努力の成果)

 頭のなかで脳内連想ゲームがプレイされていることって、ようは、脳がうるさい。これは、注意欠陥多動性障害と診断された人々に少なからず共通される体験で、そういえば、確かにおれがストラテラを飲んでいたときは脳が静かになったし、いつもの脳内連想ゲームがあまりプレイされていなかった。それに気づいたのは脳が静かになってからはじめてで、それまで人間の脳は原理的にそうなっているものと思っていた。

 メリット、デメリットの話で。脳がうるさいと暇を潰せるというメリットがある。中島らもは「教養とは一人で時間を潰せることだ」と書いたが、教養なくても連想ゲームによって時間を潰しやすい。単純な反復作業が主な職場では「暇、退屈」という悩みがよく聞かれるが、おれはあまりそう感じたことがなかったりする。いつでもそうとはいかないが、なんかしょうもないことを考えていたらもう休憩時間になっている日が多い。

 問題は、デメリットだ。集中が途切れやすい、気が散りやすい、注意が散漫する、一つの物事に根気よく取り組むことができない。これらのデメリットの前では、メリットなんぞあってないようなものだ。連想ゲームが悪いのでもなく、連想ゲームを頻繁にやってしまうのが悪いのでもなく、連想ゲームをオンオフできないことが問題になる。おれは世の中で「単純作業」と呼ばれる肉体労働でも、まだ機械では代替えできない精度の動きを要求される単純作業と、機械よりコストがかからないだけで残存している単純作業があると学んだ。工場のラインで自動車が流れてきてドアをインパクトドライバで取り付ける作業は、おれにとっては前者だった。突如、連想ゲームの開始が宣言され、俺がそちらに気を取られると、ラインが進んで赤い停止ボタンを押さないといけなくなる。

 発達障害の説明モデルは様々なものがある。そもそもがスペクトラム状の程度の問題で、人によってそれぞれの困難さの粒度にばらつきがあるし、統一的な見解はしばらくは出ないだろう。おれみたいな、連想ゲームずっとやってしまっている注意欠陥多動性障害の説明するときに、おれが分かりやすかったのは「神経群への情報入力を遅延することがむずかしい」という説明モデル。

 神経群への情報入力を遅延することがむずかしい→入力された情報は基本的には無意識で処理されるが、ある一定の閾値を超えると意識の俎上に上がる→意識される情報が増える、飽和する→些細な情報も意識してしまう感覚過敏、必要ない情報が意識に登ってしまって起こる注意欠陥、飽和した入力情報から必要な情報を取りだせずに探索行動が増える(=多動)

 といった説明モデルになる。雑にまとめた。いろいろな本読んでこの方向性の説明が腑に落ちた。「情報入力が遅延できていない」という現象が、なにかしらのバイオメーカーや客観的指標に還元できるかどうかは分からない。実験モデルも思いつかない。もしできるならば科学的説明であり、できないならば精神分析学的説明になるのだろう。『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』を読んでいると、脳科学はマテリアルの計測技術の進歩によってそれなりに進んでいるようで、いつか脳内連想ゲームに関する脳の領域を同定してほしい限りだ。『自閉症スペクトラムの精神病理』という本はラカンを引用していてまるで分らなかった。

 という感じで、なぜおれは感想が書けなくなってしまったかの説明モデルを、おれは考えついてすっきりした。

 分かったとおもった。それの妥当性はわりとどうでもよくて、そもそも最近読んでた本の内容を統合すると、「人間が時間があると思うのは、人間とかいう有機物生命体の認知限界ゆえに扱える変数があまりに少なくて、その少ない変数のうちのひとつが熱エントロピーでその特徴のせいで時間があるように認識してしまうのであって、オッカムのカミソリという採用されている指針は人間が貧困な認知能力しかないからであり、一方で人工知能は大量の変数を扱えるようになってきて人間にゼロサムゲームじゃもう余裕で勝利するし、人間の分かったとか分からないとかは人間用の少ない変数いじって狭い枠組みでやっていくしかない」といった考えに傾きつつある。分かったとか気軽にいっていい。

 おれがプロフィールに発達障害がある、と書いていてもなんらおかしくない。というか、そう診断を下されたことも、診断が下されなかったこともある。でもストラテラを飲んで脳を静かにしたところで、集中しなきゃいけないような労働内容でもないので、もう飲むを辞めてから「発達障害」という物語を閉じた。でも、こうして連想ゲームずっっっっっっっっっっとやっているのを鑑みると、やっぱ傾向はある。確かにあるし、ちょっと強く出てる。

 でもべつに実生活に問題はそうないし、長年の謎が解けたのでむしろすがすがしい気分。前に「勝手に謎を生みだしては勝手に解決している日常」って書いたけど、ほんとそんな日々。 

 

 そんなに連想ゲームやっているんですか? ブログ読むかぎりだと、たしかに急に関係ない話題が出てくることが多いと思っていましたが、別にそんなにって感じですけど。

 えっと、本題からズレたことを書いたときは基本的に削っています。だいたいいつも半分くらいは削っていて、削った箇所はコピーペーストして下書きに保存し、その下書きを仕上げようとしてまたズレたことを書いてしまう、その繰り返し。Twitterをやっていたときも、例にもれずタイムラインからの脳内高速連想ゲームをたえずやらされていて、その連想に可不可と振り分けることが、これはツイートする/これはツイートしないと判断するのがしょうもなくなって、なんかつづかなかった。という、なんかうっすらあったTwtter向いてない感の謎がいま書いていて解けて、またすがすがしい気持ちになった。

 おれが生みだした謎は、おれがすべて解決してみせる。おれは舞城王太郎の本だいたい読んでるしおれの生みだす謎なんてたかがしれているからきっとできる。