単行のカナリア

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『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるのか』を読んだ

 

 『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるのか』を読んだ。以前に感想を書いた『「死にたい」に現場で向き合う---自殺予防の最前線』と同じシリーズ。「助けて」と「死にたい」は生きづらさの表裏のようなもので、どちらの本でも支援のあり方や現場となる場所は似通ったものになる。

 SOSを出さない人、SOSを出せない人はあらゆる現場にいる。本書で登場する現場は、性犯罪被害、発達障害支援、訪問介護、被災地、ホームレス、貧困、薬物依存症など。そこで支援者が、それぞれどのような具体的な取り組みを行っているか、それぞれどのように「助けて」という声に寄り添うか、そういった経験やノウハウなどが紹介される。 

 「助けて」とSOSを発することができないと福祉や行政に繋がることもできない、という支援構造の現状を「申請主義」という言葉で表現していた。

貧困、格差、排除が連鎖し、複合的な困難を抱えている人ほど声をあげづらく孤立しがちななかで、このような観点から既存のシステム自体を問い直し、申請主義に傾きがちな支援構造への対抗を考え続けていくことは常に必要であろう。

 申請主義に傾きがちな支援構造では、対象者の援助希求能力の乏しさ、福祉行政の支援サービスについての知識、申請書を書くための言語能力など、申請以前に横たわる問題が前景化する。本には出てこないが、悪名高い生活保護の水際作戦も申請させないために行われている。また、申請の障害になるのは、孤立や自己責任論などの影響もあるだろう。この病巣は根深いものに思える。

 そもそも「助けて」とは人に言いにくい。

そもそも、誰かに助けを求めるという行為は無防備かつ危険であり、時に屈辱的だ。問題の本質は、カッターナイフや化学物質という「物」にのみ依存し、「人」に依存できないこと、より正確にいえば、安心して「人」に依存できないことにあるのだ。

 支援に繋がったあとでも、そう簡単に事は運ばない。陥穽が待ち受けている。

安心して「人」に依存できない人たちは、「この人、私のことをはじめて理解してくれた」と思わず、感激するような依存対象と出会った瞬間に、「この人を失望させたくない、嫌われたくない」という不安から「バッド・ニュース」が口にできなくなり、相手が喜びそうな「グッド・ニュース」ばかりを話すようになる。つまり、本音がいえなくなるのだ。

 弱者を救おう。ただし、善良で、努力を欠かさず、社会的要因でそうなってしまったから自己責任を免責してもいいと認められた人々だけ。そういう意見が現にあり、それが人に「依存」するから遠ざけている。

 第二章が「このままじゃまずいけど、変わりたくない」という題で、クラエントに対する援助の進め方についてのノウハウが紹介されていた。

むしろ変化しない権利や自由を認めることによって、変化が可能になることが多い。援助者は常識や意見を押しつけず、クライエントが自分自身で考えるように導いていくことが大切である。(クライエントの抵抗は、援助者が対応の仕方を変えたほうがよいというサインである)

[略]

また、すぐにクライエントが行動を変えることが困難な場合は、先を急がず、クライエントと歩調を合わせ、まずは相談を継続してもらえるような信頼関係の構築に焦点を当てて、援助を行うことも有用である。

[略]

実際に情報提供や助言を行う際は、押し付けにならないように配慮するとともに、最終的な判断はクライエント自身が行うことを強調したほうがいい。

 これ、どの現場でも、援助の心構えとして当てはまるのではなかろうか。同じ編集者の本の『「死にたい」に現場で向き合う---自殺予防の最前線』で語られていた支援の要諦に通ずるものがある。それは、受容的、共感的態度を徹底すること。信頼関係の構築に注力すること。そして、関係性を継続すること。すべてはそこから。俺は以前に金を払って受けたカウセンリングで常識や意見を押し付けられたことがある。あのカウセンラーはこの二章の文章をプリントアウトして壁に貼って毎日復唱したほうがいい。本当に。

 三章の「楽になってはならないという呪い」で紹介されている、「心理的逆転」という用語は過去の自分に思い当たる節があった。

心理的逆転という用語は、その状態が、自己利益に向かうという人の通常の動機づけの状態を逆転させ、敗北や不利益へと向かう行動をとらせるように見えるため名付けられた。

[略]

時間の経過とともに、この恐れと悲しみと恥は、親による放棄のすべての責任が、その子ども自身、そして大人へと成長した本人自身にあるのだとする有毒な内的批判家を生み出し、いずれはその内的批判家がクライエント自身の最悪の敵となって、複雑性PTSDの奥深くに沈潜することになる。

 内的批判家いる。俺の頭の中にもいて、おそらくそいつが生まれたのは、母が俺に一日三回、十年間で一万九百五十六回(『惑星のさみだれ』のエピソードと同じく)くらい、「あなたが私の思うようにならなかったら私は死ぬ」と言われたせいだろう。それにしてもトラウマ。やれオープンダイアローグだの、やれ第三世代認知行動療法だの、そういう本ばかりを読むようになったから、トラウマ解消的心理療法をひさしぶりに目にした。この伝統的なやり方がなによりも有効な現場というのがある。

 話を戻して、教育課程に援助希求能力を高める指導を取りいれることに、異論を唱える章がいくつかあった。そのような試みは、自己責任論を強化しないかという観点での異論だ。そりゃあ、自己責任論は強化されるよなあ、まったく。と思ってしまった。そもそもの現状、救われるべき弱者とそうでない弱者を峻別しようとする風潮がある。その救われるべき社会的弱者の項目に、しっかりと自分の言葉で問題を提示して援助を希求すること、が増えたところでなんら不思議ではない。そういう人たちに変われという。しかし「変化を強く求めてくるような相手とは、親密な関係を続けることが難しい」という。ここでは「助けて」と言えないからといって、じゃあ「助けて」と言えるように教育すればいい、なんて安易な解決はない。

 この本で紹介されている支援現場の最前線での取り組みやノウハウは実にすばらしい。現場ごとの対応の仕方の違いがそれぞれの支援者によって書かれている。発達障害のドタキャン率の高さ、児童虐待家庭への介入の仕方、エイズ患者の相互扶助的コミュニティなど、例を挙げればキリがないほど豊富である。最前線の現場でこのような熟慮された丁寧な支援が行われているならば、これからの日本の未来は明るいのだろうと思ってしまいそうなくらい。

 しかしその一方で、真逆の言説がインターネットでは渦巻いている。ネット空間を跋扈する自己責任論に対抗するためには、本を読んだり人に頼ったりするのが助力になるのだろうが、そういう人にこそそのための社会的資源がないという。だからといって「助けて」と口にするのは本当に難しい。「助けて」と人に頼るために「助けて」と人に頼らなければならない、と問題は積み重なっていく。

 この分野の専門家の中にこの人がいるのはありがたいというような人物が俺は何人か思い当たる。ひきこもりの分野では、斎藤環。障害の分野では、熊谷晋一郎。そして、この本の編集者と記載されている松本俊彦。彼は薬物依存症や自傷/自殺の分野ですばらしい本を書きつづけている。支援者ではないし、どちらかといえば支援される側の俺は、こういう本を読んでいると気持ちが少し楽になる。そう捨てたものじゃないのかも。俺はもうちょっと肩の力を抜いて生きてもいいかもしれないと思う。とはいえ「助けて」をめぐる問題は難しい。俺はただ難しいと書くしかない。俺ははたしてそのとき「助けて」と言えることができるのか。「死にたい」と「助けて」と言えることは援助希求能力という一つの能力なのは間違いない。

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