単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

俺は『明日、私は誰かのカノジョ』の四章を読んでやりきれない気持ちになった

  『明日、私は誰かのカノジョ』がめちゃくちゃ面白くて三章もヤバかったが四章はもう最高なんだが!  

 

 ざっくりとした感想を書き残したい。少しだけネタバレがある。俺のテンションがネタバレをしている。つーか、皆さん読みましょう。シリアスだったりビターな人間ドラマが好きな人にはオススメしやすい。人生ってそうそう上手くいかないから不条理な人間関係にリアリティを見出してしまうような人だったらもう俺は自信をもってオススメしちゃう。 

 結局、昨日は徹夜になった。

 ゾピクロンを飲んでさて寝るかと就眠態勢に入ったあとに、好きなバンドが改名して再活動したのを知ってしまってテンションが上がってしばらく寝れないのが決まり、それならと、最近ハマっている『明日、私は誰かのカノジョ』の四章を少しだけ読もうとページを開いた。そして、朝になっていた。

 俺はすっかり打ちのめされてしまった。このマンガにはほんとかなわんと思った。一章は実によかった。二章でさらに熱中した。三章は取材力の高さに感服した。

 そして四章だ。四章で、俺は『明日、私は誰かのカノジョ』はなにやらとんでもない作品だったんだな、と気づかされた。感想はしばらくまとまらないと思う。読後に渦巻いた巨大な感情のなかでまだぼんやりしている。まだ読み返しては唸っている。

 四章は、ホスト狂い、トー横界隈、承認欲求、「担当」という言葉の重み、あの日君に投げた声に復讐されてる、ストローで飲むダブルレモン味のストロングゼロ。鍵垢、「私ばっかりイカされちゃって悔しい~!」という明日から職場で使える拒絶テクニック、アルプラゾム、闘争領域の拡大、天に登るような気持ちで地に堕ちる、生きることその不可避な売春性、Life goes on、明日、私は誰かのカノジョ……。

 いろいろな感想が思い浮かんで消えていく。こんなに気持ちを持て余すのはいつ以来だろう。それはわりと最近のような気もするが。

 俺は「生きづらさ」が主題になる本を好んで読んでいる。リストカットや自殺予防の本なども読むことが多い。それらの本に判を押したように出てくるのが「物や薬に依存するのではなく人に依存すること」という助言だ。四章ではもれなく、人に依存しなければ解消されない生きづらさを抱えた女性たちが登場する。彼女たちは人に依存している。それが金銭のやり取りを通した契約上の関係といえども、それでも彼女たちが人に依存していることには違いない。しかし、その関係性は預金残高が見せる泡沫の夢でしかなく、金の切れ目が縁の切れ目であり、いずれ醒める。依存先は金がなくなると消えてなくなってしまう期間限定の天国でしかない。金と人間関係。金が人を繋ぎ、また金が人を突き離す。ヒューマンドラマのビターラブストーリー。ってビターでいいのか?と思う。

 

 なんだろうな、俺は特に四章になって気づいたが、このマンガに出てくるキャラクター全員を好意的に感じているのかもしれない。雪とリナなんてもういつの間にか、ゴンとキルア、ガッツとグリフィスみたいな最強のふたりって貫禄すら出てきた。萌たゃ(どう発音するのこれ?)も、ゆたてゃもそう。ホストの楓やハルヒですら「お仕事でやってるだけ」「マニュアルにはめてる」だけだし。一瞬だけ出てくる客引きしているホストにいたっては「なんかわからないけど元気出してね!」って妙に優しい。とはいえ、想像力がない人間や無神経な人間がけっこう出てくる。かといって『闇金ウシジマくん』登場するような悪いやつらはいない。しかし、些細なボタンの掛け違えがあり、 そこに彼女代行サービスやホストクラブやデリヘルといった人に依存できる高額なサービスが絡むと、体も心も擦り切れるような人間模様がまざまざと浮かびあがってくる。

 『明日、私は誰かのカノジョ』はこれといった悪人は出てこない。と俺は思っている。他のマンガでは悪役になりがちなホストでさえも自分の仕事を全うしてただけ。それゆえのやりきれなさがある。悪い人はいない一方で、悪い社会構造はある。確かにある。搾取という言葉が思い浮かぶ。俗にいう「社会の闇」というやつだ。その闇が覆っている場として、近代資本主義の落とし子の人間関係サービスが出てくる。彼女代行、ホスト、デリヘル。ここに、安易な自己責任論の出番はない。このマンガ、なぜか昔に読んだ社会学の本を思いだした。上間陽子の『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』や岸政彦の『マンゴーと手榴弾』、鈴木大介の『ギャングース・ファイル 家のない少年たち』の本のように。登場キャラクターの陰に隠れて前景化こそしてはいないが、うっすらと社会の構造が浮かび上がってくるようなマンガだろう。

 ほんと、このマンガは読み込めば読み込むほどおもしろい。俺の中でこれまで三章がもっとも評価が高かった。美醜、美容というテーマを、丹寧な取材でリアリティを積みあげ、そしてヒューマンドラマをきっちりと描ききった。これ以上の話はそう出ないだろうと油断していた。

 しかし四章が、やはり四章こそが最高傑作なんじゃないかと今は思う。五章はまだ読んでいない。萌たゃとゆあてゃについて思いを馳せてそこで立ち止まってしまっている。萌たゃってどう発音するんか分かんねえけど。

 なんというか、面白いと書くだけでは不適切な気がしてならなくて、なにかいろいろと感想を書いてしまう。俺はこういうマンガに本当に弱い。四章を読み終えたあとに、さて次!次!とはならなかった。朝五時半にゆあてゃ~萌たゃ~とか嘆いている気持ち悪い生き物になってしまった。「世の中って、むつかしいね」とゲームのキャラクターのセリフを思いだしてぐちゃぐちゃになっている。朝っぱらから、トー横の人たちが揃いも揃って手にしてるダブルレモン味のストロングゼロを飲みたくなった。 

 とにかく俺が書きたかったのは『明日、私は誰かのカノジョ』の四章は最高だったということに尽きる。ネタバレになるから書かないが、四章の終盤でめちゃくちゃ好きなシーンがある。そのシーンをもう何度も読み返しては目頭が熱くなっている。感想はもっと読み込んでから書きたい。なにせ四章のあと一章の感想も書き直したくなった。

 この作品がリアルかどうかは分からない。あくまでクソ田舎に住んでいた俺からすれば、ホストも売春もしてた子も知り合いにいた実体験があって、そうかけ離れていないんじゃないかと思ってはいる。まあ、少なくともリアリティがある。現実と違う点といえば、マンガではあんまり悪い人が露骨に搾取するようなことはなく、穏当で遵法精神に溢れた世界だろう。暴力と悪意が比較的少ない。が、そのせいで、誰のせいにもできないやりきれなさがあるから、俺はやりきれない気持ちになった。

 あと萌たゃの発音がいまだに分からない。こうなっていたかもしれないという夢は金でも買えない。人生ってそうそう上手くいかない。『明日、私は誰かのカノジョ』は面白い。四章は特に面白いのだ。