単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

『明日、私は誰かのカノジョ』1巻 「本当の私」についての話

 

 『明日、私は誰かのカノジョ』1巻のネタバレ有り。感想はもうすでに書いているので今回は「本当の私」についての考察。

 結論から書けば、全然まとまっていない。そういえば、俺は人の気持ちがよく分からない人間だった。それなのに『明日、私は誰かのカノジョ』を読んでいると登場キャラクターの気持ちを考えさせられるからこのような記事を書いてしまった。俗にいう「考えさせられる作品」って本当に存在している。『明日、私は誰かのカノジョ』がそれ。ただ読み返しすぎているせいで俺が勝手に考えてるだけもしれないが。

 

 雪にとっての「本当の私」とは何なのかについて考えていた。ちなみに、この言葉が登場するのは、初めての良好で化粧を落とした後に鏡を見るシーンのみだが、嘘や本当というような話はよく出てくるから気になっていた。

 特に以下の、回想するシーンが象徴的。

「仕事で男性に嘘をつき続けることで自分でも自分の本心がわからなくなってくる」 「私は多分冷静なんじゃなくて他人に曝け出せる自分がないだけ」

 それで、読み返して気づいたことのひとつが、「本当の私」の話題でおなじみの「どれが本当の私」という問いが雪が持ってないことだ。

 日々、人間は場面は対人関係に合わせて役割を変え、演技している。そこで、そのどれが一体本当の私なのだろうと疑問を持つことは誰にでもあるだろう。しかし、雪には「どれが」というその選択肢すら出てこない。唯一、雪が本当らしさを感じているのが、顔にある火傷のような痕のみで、そういえば、雪は最も仲がいいリナにですらそれを隠している。

 そもそも「本当の私」なんてものないと言われれば、それそう。それでも「大体これは本当の私だろう」と了承している自己像はあるで、ある程度の信頼を持てるその自己像を「本当の私」という言葉で表現している。

 雪はカバーメイクを施せば人の注目を浴びる美しさがある一方で、カバーメイクをせずに素顔を見られたときは配達員や旅館の授業員のようにギョッとされる。化粧と素顔では、極端なまでに反応の違いがある。メイクの有無で相手から正反対のリアクションをされる経験を積み重ねる。「みんな見向きもしないし、気味悪がられる」というのは、悲観的予想ではなく実体験ときている。さらに壮太のように人は隠されたものを真実と思い込みやすい。その雪に向かって「化粧したあなたも本当のあなた」というような言葉はあまりに白々しく聞こえるのだろう。

 いつからか雪は火傷の痕にアインデンティティを見いだすようになってしまった。しかしそれは同時に隠さなければならないものでもある。

 雪が口にする「本当の自分」という言葉は切実な響きがある。雪は小学生時代に将来の夢を書かされるときからすでに気持ちを偽って生きてきた。そうではない人間に対して内面では「そっち側」と分割線を引いてしまったり、幸せな家族の風景のエピソードをでっち上げて自分でダメージを受けるほどで、それを一般的には心の傷と呼ぶ。

 雪には心にも体にも傷痕が残っているのだ。そして、顔の痕は隠すものであり、心の傷は常識や世間という価値観の後ろに隠れてしまう。だから雪は私の心が「本当」ではないという意識が非常に強い。本当の私、私の中味、偽り、嘘、素といった言葉が頻繁に出てきて、深刻な問題になる。

 俺は初めて読んだときにはその深刻さが気づけなかった。「本当の自分」というのは誰しもが通る道だが、そこで袋小路になる場合もあることを分っていなかった。雪は若い。少なくともマンガでは若いと表現をされている。しかし、雪のアインデンティティに関する違和感はけっして「若者の自分探し」のような一過性のものではない。

 で、このマンガの凄みが、「本当の自分」が分からくなっている雪が、レンタル彼女代行サービスに従事し、嘘で塗り固められたカノジョの役割を担う点にある。隠し、隠れてしまう上に、さらに感情労働の新形態であるレンタル彼女という舞台装置により、「私」は捉えどころがないものになる。あまりに複合的な問題が絡み合っている。ある種の心理的危機といっていいぐらいの状態になってもおかしくない。

 いや、それにしても、このマンガって本当に現代的だと思う。四章と五章ではコロナ禍における風俗業についても描かれる。タイトルの『明日、私は誰かのカノジョ』という彼女代行サービス(=感情労働)も、ありとあらゆるものが値付け可能の社会の発展によって副次的に需要が増えつつ生まれた産業だ。

 

 なぜ雪は壮太の告白を断ったのか。これについて考えたとき、告白された後の雪が見た夢がその答えではないだろうかと思った。雪が見た夢は、現実の延長線上の幸せではなかった。はじめから失われた未来の中での幸せだった。最初は現実の世界でもし仕事を始める前に壮太と出会っていたらという空想の話で、次が出発点から架空の世界の空想の話になる。徐々に、現在から遠ざかっていく。とはいえ、雪の心に揺らぎがあったのは間違いない。偶発的に素顔を見られたことによって、壮太は雪に少し近づくことができた。ただ、雪の「幸せな想像をしたって 現実は何一つ変わらないんだって より強く実感するだけだもの」という台詞は、幸せな想像をしてそれでも現実が何一つ変わらなかった経験があるからこその実感のこもった「結論」なのだろう。少なくとも壮太の関係性の中では結論として提示される。

 なんというか、一巻を乱暴にまとめるならば、壮太がカノジョではない本当の雪を見つけることができなかった話だと感じた。そして、雪自身が自分ですら分からずに折り合いをつけられていない以上、どのような私だったとしても受け入れるのは難しかっただろうが。

 「本当の私」という言葉は厄介だ。それこそあまり聞かれなくなってきた言葉だが、その手に関する本は本屋にいまだ数多くあり、おそらく一般的な悩みだろう。しかし、一般的な悩みだからといって、その内容は多種多様であり、ときには他人と共有することが非常に難しいものになる。『明日、私は誰かのカノジョ』はその難しさがほんとうに冷徹に描かれていると思った。雪は壮太に初めて素顔を見られたとき「私は貴方の知ってる子じゃない」と返すが雪自身ですら分かっていない。唯一確かなのは、例えばカノジョを演じている自分が本当ではないことのように、それは違うという否定できる私の要素だけだ。そして、そのような私を否定しつづけても、本当の私が分かるわけではない。それなのに、依然としてアインデンティティの危機が存在する。

 ほんと、このマンガには「考えさせれる」って使ってもいいだろ。俺は使う。このマンガは考えさせれる。そしてべらぼうに面白いから考えるのも面白い。

 それと、雪が男性の肌を見たときに、おっさんは汚いなとか壮太は若いから肌が綺麗だなと感想を思い浮かべるのは、自身が学生時代に無遠慮なまなざしを向けられていたからこそだろうな。どう見られるかに意識的だからこそ理想のカノジョを演じることができ、職場で人気No.1の座に居座りつづけることができる。だからそれがなんだって話なのだけど。だって、それなら良かったねとはならないでしょ。

 あと嘘をついてダメージを受けるシーン、母親に大事に思われたかったから始まるのではないんだよな。「私だって本当はお母さんを大事に思って」「大事にされる」って順番なのがとても切ない。愛されたいではなく愛したかった。でも、それすら叶わなかった。そういう話。