単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

俺は『明日、私は誰かのカノジョ』の前川正之について語りたい

 三章を読み終えたあたりで書いています。

 あなたはサイコミの人気マンガ『明日、私は誰かのカノジョ』の前川正之というキャラクターを知っているだろうか。もし知らないならば、第一話に出てくるので無料公開されている一話を読んでみてほしい。

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 ちなみに四千字ほど前川正之について書いていて、彼の経歴のネタバレはあるが、それ以外のネタバレはないと思う。 

 

 前川正之の初印象は『明日、私は誰かのカノジョ』の彼女代行サービスの典型的ユーザーで「よくいる客」の一般的なイメージが反映されているのかなという印象が強かった。 

 その理由は、主に見た目から。

 このマンガでは、彼女代行サービス、パパ活マッチングアプリ、ホストなど、「偽りの人間関係」「時間限定の愛」が商品やサービスなどが舞台になる。そこでは必然、見た目の良さや器量の良さが武器であり、正確には換金可能な資源となる。その描き分けは徹底されている。顔の部位を1mm移動させるのに数十万、数百万かけるキャラクターが出てくるし。

 すると、はっきり書けば明日カノの世界では見た目がよくないと舞台の中央に立てないし。出番も少ない。正之さんの見た目では、脇役の立場からはみ出すことはない。

 という第一印象だった。

 が、しかし、正之さんは脇役キャラ(おじさんズ)にはとどまらない、なにやら妙な存在感があるのだ。

 そう思っているのは俺ばかりでないようで、ためしにTwitterで「正之 幸せになって」と検索したら多くの……まではいかないけど、それなりには彼の幸せを願うツイートがある。どんどん増えてくる。正之さんはおじさんたちの中でも、ひと際存在感があるようだ。

 

 それもそうで、正之さんは「役割を担ったモブ」にしてはキャラクター性が強い。ってことが一話時点でだんだん分かってくる。

 正之さんは空気が読める。相手の気持ちを慮ることができる。めでたいやつではない。身の丈を知っている。あとちょろい(はどちらかといえばカノジョになったときの雪が魅力的すぎるせいもあるが)。

 そんな正之さんの人物像がよく分かる次のシーンだろう。

『明日、私は誰かのカノジョ』1巻より

 雪が発した無言のメッセージを、正之さんが即座に理解し、適切な返答をするシーン。

 俺が何度でも書くが、このシーンは『明日、私は誰かのカノジョ』の魅力が詰まっている。俺はこのシーンで明日カノ全部読もうと決めた。

 このシーンを細かく読んでいくと、雪が無言の微笑によって「もし私とまた会いたいならどうすればいいのか分かりますか?」というメッセージを伝えている。そして正之さんはハッと理解し、今日という素晴らしかった日があくまでサービスの契約上成りたっていたにすぎないと、現実を自覚してしまう。それでもまた「会いたい」から、そのために自分がどうすればいいかを考え答え、雪から「嬉しい!」と正解を引きだすことになる。

 ……なんて高度なコミュニケーションなのだろう。なんて切ないシーンなんだろうな。

 それも、をのひなお先生はキャラクターの曖昧な表情描写がとんでもなくうまいからこそ成り立っている。そもそもコミュニケーションは「言葉」のみでなく「仕草」や「表情」といったノンバーバルな要素が関わってくるという話で、マンガでそれやってる。

 で、張った画像の正之さんが「会いたいからまたお店に連絡して予約入れるわ」と言うときの手。手を見てほしい。人間はそうそうTシャツがくしゃっとなるほど握りしめることはない。正之さんは一体どのような気持ちでその言葉を口にしたのだろうか。雪とまた会いたい。しかしそれは偽りの関係と分かっている。それでもまた今日のような素敵な時間を味わいたい、雪ともっとお喋りしたい。期間限定のカノジョでもいいから。などの葛藤を経て、正之さんは「心臓を掴まれ」ような思いをしているのだろうな。好きはごまかせない。偽りの関係性で、本当のリアルな感情が生まれてしまった。

 結局、正之さんの「また会いたい」は雪には「リピート見込みあり」にすぎない。それがまた、まあ、切ない。

 さらに詳しく一話を振り返れると、正之さんは初登場シーンは、軽い気持ちで彼女代行サービスを利用したら雪のとんでもないかわいさに動揺し、事前に用意したであろう「初めてこんな店利用したわ……友達から聞いて一回試してみようと思って彼女をレンタルしたとかも話のネタにもなるし?」というセリフをつらつらと語りだす。もちろんこの嘘は見透かされている。で、雪に「ありがとう」と手をそっと握られると、正之さんはビクッとし、思わず「すごいわそのプロ根性」とかやや酷いことを言ってしまう。それは酷いよ、正之さん! でも雪の完璧なマニュアル的対応に返り討ちにされてしまうという。正之さんは酷いこと言ったことを後悔する。

 というか、雪が働いてるレンタル彼女サービスは、四章でそれなりの高額店で研修期間も長いと描写されるので、客対応マニュアルは相当にぶ厚いと予想される。

 それから、正之さんは雪の「そういう話しないで……」の軽いジャブと「私は正之さんの彼女でしょ?」という決め台詞で、ついには完全にノックアウトされてしまう。この台詞、「今日は私はあなたのカノジョ(契約上のかりそめの)」「彼女にはそんな話をしないでしょう」と色々な含みがありそうな言葉だと感じた。

 で、正之さんはハマってしまって、雪に「リピート見込みあり」とメモされてしまうのだ。どうしようもない。雪だから正之さんが入れこんでしまうのは仕方がない。相手が悪かった。雪はかわいすぎた。

 次のシーンで、こっそり正之さんのスペックが明かされるのだが、それが妹ロリ系が好み、SEの仕事、喫煙者、姉がいる、声優オタクといったもの。正之さん、妹ロリ系が好みで声優オタクだったんだ。てか喫煙者なんだ。明日カノはLINEの文章とかもぼやかしながらも読むことができるし、ほんとに細かいと思う。

 

 すでに長いんですが、このあとの展開で、正之さんがただのモブおじさんではなく、俺のなかで「正之さん!」になるんですよ。

 雪は、正之さんとの一日を振りかえって「後はいつも通りの流れ…三、四回目ぐらいで、ただデートをするだけじゃ満足できなくなって、本気で好きになったとか、お店を通さないで会いたいとか言ってくる」と今後について予想するのだが、そうはならないのだ。少なくとも三、四回目ぐらいでは。

 正之さんは懲りないやつでもないし、おめでたいやつでもない。身の程をわきまえている。軽率な振舞いはできないし、しない。だから、時に叶えられない願いを胸に秘め、ひとり泣いてしまう夜を過ごすこともあるくらいで。

 正之さんが、この愛が叶うことがないとさめざめと涙を流すシーンは心にくる。正之さんはインスタ映えしそうなスポットで撮った雪とのツーショットを待ち受けにしつつも、それが金を媒介にした期間限定の関係性と心底理解している。それでも昂る思いを抑えきれずに「雪っ……!」と慟哭してしまう。一万円札の中でのみ存在を許される、あまりに儚い関係がそこにある。届かない恋をしている心が鏡に映し出される日はやってこないのだ。

 そして、これ以降、正之さんは『明日、私は誰かのカノジョ』という舞台の上で割り当てられた役をこなし、静かにステージから去っていく。と思いきや、たまにステージに戻ってくるし、ネタバレはしませんが正之さんがステージ中央に立つときもあるとかないとか。

 なんつーか、やりきれない。雪が壮太のことを「懲りないやつ」「おめでたいやつ」と思うが、その点で正之さんは対極の存在といってもいい。凝りているしおめでたくもない。でも、だからこそカノジョといつまでも別れることができないし、軽率も振舞いもできない。別の恋人を作って懐かしい思い出になる、なんてことにはしばらくはなさそうだ。

 俺は『明日、私は誰かのカノジョ』で冷徹なマンガだなーとつくづく思う。残酷ではないのよ。もしこの物語を残酷というのならば、それは社会構造が残酷なだけだろう。資本主義リアリズム、アテンションエコノミーとかそういう感じで。それぞれのキャラクターが社会のルール内で、生活や快楽のために人間関係を売り買いしているだけで、やるせなくなってしまう物語だ。誰が悪いとはあまりなく、ボタンの掛け違えがある。そもそもマンガ内では遵法精神に欠けてるキャラクターってほとんどいないし、まず人間を奸計をもってして搾取するような悪役なんてのも思いつかない。だから、俺は冷徹なマンガだなーと思っていて、正之含めてみんないいキャラクターだなあと思いつつ、またなんかやりきれねえなとか感じてしまうわけだ。

 つまり『明日、私は誰かのカノジョ』は「面白い」ってなる。こういう人間ドラマが最高に面白いから十巻の続き読みたくてしょうがない日々になり、この記事のように正之さんについて書くことになる。正之さんの一挙一動に注目したりする。

 明日カノには幸せになって欲しいキャラクターばっかいるけど、正之さんはほんとに幸せになってほしいなあ。

 俺も正之さんにならって「夜勤明けの空をおすそわけ」。

 追記。三章までじっくり読み返したら、わりとちょくちょく正之さん出てきた! そしていつも通りに優しかった! というか今の今まで正之さんを「客」として認識していたせいで正之さんの出演に気づかなかった……。読み返すたびに発見あって面白い……。明日カノはあまりに面白すぎる……。