単行のカナリア

感じて想する

『発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること』を読んだ

 読書メモ

 ゆで卵とスプラとおっぱいが例えで出てくる、DCD特性が強くある発達障害当事者の精神科医が書いた本。広くいえば、発達障害と診断する、説明する、名付けることの意味について、精神医学理論に依拠しながら、ときには例えや実体験を織り交ぜて書いている。発達障害を診断するとはどういうことかを深掘りしている。人を特性やスペックをもって「あの人は〇〇だ」とカテゴライズすることの功罪なんかの話も出てくる。

 はしがきの「精神科医はどうして生業としてその精神科医をする時に、心を了解することを時として断念しなくてはならない場面に直面するのか」を、具体的な症例の中で解説していく箇所はとても面白い。了解を断念しなければならない症例では、オープンダイアローグについて懐疑的な意見が出てくる。俺がこれまでに読んできた本では「オープンダイアローグ」信仰というぐらいの内容ばかりだったから、この本を読んであらためて相対的に捉え直すことができた。 

 第一章の筆者の学生時代のエピソードで、発達障害にさまざま特性が組み合わさって生じるのことは生存に有効だったのでは、という指摘はユニークだ。

重複したこうした(ADHDASD、DCD)脳スペック特性を持つことの多くの場合は、生き残りには不利な形質として報告されているわけですが、発達障害と呼ばれているいくつかの脳スペックが組み合わさって出現することが少なくないのは、案外、組み合わさって出てきた方が、生き残れる確率が高かったからだということではないのでし ょうか

 発達障害ADHDとADDの特性が重複して現れることで適応を促していかもしれない。……なるほど。筆者の例では、ADHDやDCDの傾向性で周りから顰蹙を買っていたかもしれないが、軽いASDによってそれが自身に伝わりにくかったかもしれないとある。というか、筆者「みんなに愛されている」と思い込んでいたらしい。かくいう俺も幼少期は「母以外には愛されている」と思い込んでいたおかげで人と関わることが(相手からどう思われていかは分からないが)好きでそれが救いになっていたからなにかしら頷くところがある。

 で、発達障害について。

さまざまの発達障害に関しても「障害」という名前はついていますが、そのスペックに適した環境に置かれていないが故の不適応と考えた方が、病気だと考えるよよりもはるかに実態に近いと考えていただく必要があります。

 まあ、これだけならよく目にする意見だが、その例えとして持ち出されるのが車だった。これは初めて目にした。田んぼのあぜ道にスポーツカーでも高速道路で耕運機でも同じく不適応というような例になる。なるほど、分かりやすい。そして、「何が生物学的スペック」として優れているのを優劣をつけることは実際にはなかなか難しい。もし発達障害者が圧倒的多数派の社会があれば、定型発達者が「障害」になってしまうかもしれないif世界。

 ADHDの特性の一つとして「知識が軽い。好奇心に駆られて知識を求めるから、他人に知識を披露する動機が「どう? これおもしろいでしょ?」であって、「僕はこんなことを知っているよ」というマウンティングをしない。だから軽い。」というのがあるのでは、という意見はめちゃくちゃ分かりみ深い。俺が「あれとこれ似てる!」とか「あれでこれ思いだした!」とよく書いてしまう理由がおそらくそれ。

 第二章、は「診断」されるということ。私は男です。私は右利きです。私はADHDです。というスペックがどの程度「私」なのかという問いから始まる。「ユダヤ人」という名付けの歴史的な変移を通じて、属性の本質について考えている。

 ある特定のスペックは人を「分からせてしまう」とある。

つまりこれは何らかの形で相手に自分のことが勝手に「分からせてしまう」ことだとも言えます。「分かれてしまった」のは、その人の行動原理かもしれませんし、遺伝的な違いによる何か「自分たち」とは根本的に相いれない心の成り立ちといったものかもしれませんが、いずれにしてもその名前で名付けられた人たちの言動は、すべて一つのキーワード、あるいはASDならASDという一つのキーワードで説明され、たとえ何か一人ひとりに差異が残っていたとしてもそれは取るに足りない何事かとして処理されてしまうことになります。

 このことはまた「その人の属性をはぎ取ってその人の本質として前景化してしまうかもしれません」ということでもある。当たり前っちゃ当たり前の話なんだけど、例えば身近でない犯罪者についてや、またニュースで見聞きした遠い国の出来事に対してはは、ついやってしまいがちな判断ではある。予測可能性・ヒューリスティクスが問題にならないときは、特にそうしてしまいがちである。認知資源節約のためか、認知機構がそうなっているのか、簡単に人を一つのキーワードで処理してしまう。可視的かどうか、あるいは一過性の状態か持続的性質かがそれに深く関わってきているという話。 

 あとちんちんの話も出てくる。一つのキーワードで処理するって話といえば、ごくまれにちんちんというキーワードで人を処理するような人もいる。ちんちんは可視的で持続的性質だし……。付けくわえて、可視的なスペックで人を規定してしまうのは差別に繋がりやすい、は確かにそうだろう。

 これは重要だろうなと思ったところ。生卵からゆで卵と、血液型の二種類の診断の話が出てくる。前者はそもそもが「物理的な明快な境界線を引くことの構造的不可能性がある」。生卵はいつからゆで卵になるのか恣意的な線引きをしなければならない。一方、血液型は、糖鎖の末端についているものの違いという定義があり、「金本位制における兌換紙幣のように実体を担保する物理的な裏付け」がある。診断にはこれら二種類があり混乱しながら用いられているようだ。ここを読んで、俺はうつ病を思いだした。「うつ病は脳の病気」と言うけれど、あくまでモノアミン仮説であって、広く了承されている責任病巣はなく、現状は恣意的な線引きもされている。だからって甘えまで線を引くぐらいにやりすぎな人もいるが、「うつ病は脳の病気」には二種類の診断が混乱して用いられている。

 「病気」「障害」として捉えることの功罪。

いずれの場合も、脳のスペックによって一連の行動が説明された結果、一連の行動がその行動をとる個人の責任から切り離され、極端に言えば故障した冷蔵庫と同じ扱いを受けることになったものです。

 小阪井敏晶の『責任という虚構』でありそう。免責としての障害、救済措置としての障害、共同体の異物認定としての障害……。

 そして、功罪の罪。

しかし他方で、そうした配慮は、自分たちとは違うそのような「種」として、脳のスペックの違いを生物学的決定論とみなし、「私たち」と「彼ら」に世界を分割し、説明されて「分かってしまった」存在と「彼ら」をみなし、それ以上の対話を打ち切ってしまう危険と表裏一体です。

 第三章は、筆者の「自分の気持ちが解決積みの問題として通り過ぎる」ことの違和感に端を発する論で、精神医学の理論的な話が多いの飛ばす。ここで「了解」という言葉に大きな文脈が与えられる。説明でもなく理解でもなく、了解。

 あ、一つだけ書いておきたいのが、「スプラする」という文章だ。俺はそれを見るとついスプラトゥーンのことを思い浮かべてしまう。

グルジアには、スプラという友達や家族同士で繰り返し行われる宴会があります。自家醸造したクヴェブリワインを手にさまざなの食材を用いて作った料理をテーブルいっぱいに並べてポリフォニーの合唱を時に交えながら、タマダと呼ばれる進行役の主催者が繰り返し乾杯、そしてスピーチをするのですが、このスピーチは気持ちを名づけるための正しい作法がどのようなものかを範型的に伝えています。このスピーチは宴会の間何度も繰り返し行われ、その中で私たちの気持ちが一期一会的に、一つの定まった言葉によってではなしにポリフォニー的に名指されていくのです。

 この後ずっと、スプラする、スプラのように、スプラ感、スプラ的といった言葉が頻繁に出てくるものだから、スプラトゥーンのことが頭によぎって仕方がなかった。

 第四章は、具体的な症例のなかで、どこで了解可能/不可能に線を引き、どこで物理的介入を行うか、という精神科医としての職業について書かれている。

 線引きの基準として、「特定の出来事がこの当事者に引きおこすであろうと予想される心の状態と実際の心の状態の釣り合わない部分」が了解不能な部分とされる。これに関しては症例を挙げながら詳しく説明している。どこで線を引いて物理的な介入をするかが、精神科医の職能が試されるところなのだろう。それゆえ、いつも考え続けなければならない切実で決定的な問いとまで書いてある。「了解を断念しなければならないと考えた場合、精神科医は物理的手段が必要と考えるという原理原則」を強調する。

 ようやくここで筆者がオープンダイアローグ的な接近が有害と思うケースも出てくる。この本では、オープンダイアローグではなくスプラと表記されるが。有効性、有害性という功罪についてきわめて慎重に見極めとしている記述は、筆者の精神科医としての矜持を感じた。

 手あたりしだいに言語化すればいいってものでもなさそうだ。 

言語化されず、実在はしているが実態ではないような気持ちに言葉を与えて配慮為しに可視化してしまうと、本来はそのまま流されて消えていく可能性もあった病的体験を実体化し、それが大きく展開してしまうきっかけを与えるリスクもありえます。

 この言語化を「気持ち化」「対象の相貌化」と呼んでいる。パニック障害の暴露療法と同じく、そこには功罪がある。治療法というのは、功か罪をことさら大げさに喧伝するような本が多いなか、筆者のあくまで精神科医としての領分でどうやったら患者を少しでも楽にできるのかという立場は畏敬の念すら感じる。

 

 第五章はまるで集中できなかった。大事なことが書いてあるのに、おっぱいとスプラが出てくる箇所しかまるで覚えていない。

おっぱいが一つの問いとして彼女に至る道であるのと同じように、ADHDも一つの問い、一つの開口部として彼に至る道、彼とスプラする入り口だと考えると出会いのきっかけとして機能する可能性が開かれるようにも思えます。

 このように書かれてしまうと俺にはどうしようもない。なぜならば俺はスプラトゥーン大好き人間でいよいよスプラトゥーン3の発売が近いからだ。「常に自らの対象をヴァアリアブルへと脱皮させたいという医学の持つ強迫的な欲望」と書かれると、スプラのヴァリアブルローラーが頭に浮かんでくるぐらいだ。逆境スぺ増ガン積みで自分の高台からマルチミサイルを撃ちつづけるあいつを。あと「明美さんそのものは「おっぱい」という答えではなく、これから開示されるべき問いでありつづける」といいうのも、俺がちんちんという答えでないようにまた明美さんもおっぱいという答えではないのだ。

物理的尺度を装った質問紙票による評価尺度なるものがありますが、言うまでもなくそのカットオフ値はいくら統計に素晴らしい外装を施したといしても基本的には恣意的です。

 

 『発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること』は診断という行為について、精神科医かくあるべしといった症例の取り扱い方が書かれていた、ゆで卵とちんちんとおっぱいとスプラの印象が強い。ミニコラムの専門的な話はかなり面白い。精神医学の本はあまり読まないのもあり、了解について考える論考のために依拠している理論はとっつきにくさがあったが、具体的例を挙げながら分かりやすく書かれていた。こんあにスプラが出てくる本は生まれてはじめて読んだ。面白かった。字面も内容も。