単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』を読む

 

 俺が自信をもっておすすめできるアスペルガー症候群の本が『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』。当事者エピソード、理論的枠組み、コミュニティにおけるつながりの問題点と作法。オープンダイアローグ、当事者研究べてるの家発達障害に限定することはなく、マイノリティ全般に関するつながりを志向したすばらしい本だと思っている。

 そのせいでKindleで読みながら「この文章はメモっておこう」と黄色と青色のマーカーでハイライトしたら該当箇所が多すぎてずいぶんとカラフルな本になってしまった。

 第一章アスペルガー症候群の当事者による語りになる。

どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ 

 これは、まさに『自閉症と感覚過敏―特有な世界はなぜ生まれ、どう支援すべきか?』による感覚過敏説明モデルに当てはまりそうだ。感覚の拡大と停留による、感覚飽和が特徴の根本にあるという説だ。

 それにしても、語りは饒舌だ。自分の症状をすらすらと言語化している。自分の不可解さに悩みつづけ、それを人に伝えるために言葉にし、あれは違うこれも違うと言葉を磨きあげてきたのだろう。ワープロを親から借りて「わたし」と対話するためにひたすら文字を打ち続けてたとある。それが大きな影響をもたらしているのだろう。 

 語りのなかであった、自分ではうまくいっていないのに周りからすれば「普通に」見えることが余計にズレを感じさせるというのは分かる。

とはいえ人から見ると、可もなく不可もなくという範囲で「普通に」動けているように見えることもあるようで、私の感じる混乱と恐怖ほどには、私が身体をうまく扱えていないように見えないらしい。そのような自分の感覚と他者からの見え方のズレによって、ますます私はモノとの関係からはぐれていったのである。

 この本は、綾屋紗月と熊谷晋一郎の共同著書に当たる。俺はやはり熊谷普一郎の言葉が好きだ。明瞭で力強い。説明ならば分かりやすく、主張ならば頼もしさがある。

 

 第二章で、脳性まひの彼は、母と密室的な関係性のなかで、生きていく上で外界とのつながりを阻害する二つの幻想が膨れあがったという。

 健常者幻想は、「いまだ至らない、不完全な私の身体」というイメージを突きつけ続けることで、自己身体についての信頼、つまり自信のようなものを奪い続けるし、「厳しい社会幻想」は、「無理解で無慈悲な恐ろしい世界」というイメージを突きつけ、「なんとかなるさ」という世界への信頼を損なっていく。

 「健常者幻想」と「厳しい社会幻想」は、多くの密室的な家庭環境で充満していそうとおもった。「ちゃんとしなさい」そうしなければ「やっていけない」という言葉で囲い込み、親が子どもを自らが望むものに仕立て上げるために躍起になる。そういう話ならばめずらしくなさそうだ。そして、子どもが挫折し、「ちゃんとできずにやっていけなさそう」になるのもめずらしくない。俺とか。

 とはいえ、筆者は親が加害者というわけではないという。

「健常な動き」「子供のために尽くす母」という規範的なイメージこそが、最上流に位置する加害者なのだ。規範的なイメージは、大人同士の相互監視によって維持されており、すべてはそこから流れ出す。

 そうだろうなとは思う。そう納得できればいいなとも思う。規範的なイメージのことを俺は小さい頃は「世間体」と呼んでいたが、そのイメージは人を傷つけるのだ。そのイメージを体現することが叶わない人達を。規範的なイメージが加害者になるとき、その共犯者は「常識的に」という言葉だろう。

 

 第三章の、綾屋紗月が「アスペルガー症候群」と診断名をもらい、それによる変化が書かれていた。

また、帰りの電車の中では、私から離れていたに二歳、四歳……十六歳、二十三歳、の私が、一体ずる私のところへスーッと集まってきて私の体の中に吸い込まれていくような感覚になった。「自分の存在」や「周りで起きていること」に意味づけができず、その時その時で断片化した記憶となってしまっていた「過去の私」が、一つの時間軸上に並ぶようにして「現代の私」に統合されていく感じだ。電車を降りてからは「そのひとつひとつの過去の私をすべて許していいんだ」と感じた。そしたら感動して少し泣きそうになった。

 俺は診断名がついたときも、そして障害者手帳を手に入れたときも、特に何も思わなかった。それまでに「毒親育ち」とか「アダルトチルドレン」とか「複雑性PTSD」とか、統合してはその衣装を脱ぎ捨ることを繰り返してきたせいで、もうよく分からなくなってきたからだ。今もそうで、発達障害という概念が俺を統合してくれることはない。ただ、説明できなかった部分に言葉を手当てすることができ、それによって生きづらさが少しは減っている。

 で、彼女は診断名がついたあとに、まず同じカテゴリーの当事者に合うことを欲したようだ。仲間が欲しかったらしい。ここで俺との決定的な差異がある。俺はその診断名によって自分のことを説明するための言葉をさらに貪欲に探すようになった。でも、今思うと、それを一人でやるより人とやったほうが効率がよかったのだろう。

 彼女はコミュニティに参加し、そこで安楽の地でないことを身をもって知る。「本物のマイノリティ」か問われるまなざし。学歴や年収は職業的ステイタスや配偶者の高低や有無によって分断線が引かれる。同化的・排除的圧力の息苦しさ。彼女も「とはいえ、あなたは配偶者がいるからいいよね」と言われてそうである。インターネットでは理解のある彼くんという分割線を引くことがブームになっている。俺も年収一千万円のマイノリティがコミュニティにいたら「俺とは違う」と分割線を引く。どうしたって引いてしまう。「差異を過小評価すれば個の抑圧につながるし、差異を過大評価すれば連帯が損なわれる」はその通りだろう。

 

 第四章は、当事者研究についての理論的枠組みが詳しく説明される。

当事者研究というのは、「『わたし』が『私』のことを記述したり解釈したりする実践」だと言える。

 もしくは、   

「自分の苦労の主人公になる」という体験であり、幻覚は妄想などさまざまな不快な症状に隷属し翻弄されていた状況に、自分という人間の生きる足場を築き、生きる主体性を取り戻す作業である。

 当事者研究では、「治療の論理」でもなく「運動の論理」でもなく「研究の論理」を持ち込むことが重要で、「当事者研究」というからには、個々の当事者が日常実践のなかで得た身体感覚や苦労のエピソードなど、多種多様な一次データが必要になるという。

 そして、一人で研究しても片手落ちになる。

自分個人の体験は見通しを持って自覚しづらく、「あなた、あの時も同じことしていたよね」と人に指摘され初めて、自分の体験世界のなかにある長期的な反復構造に気づくことはよくある。

 ……ええ、俺も本当にそう思います。「体験そのものは本人がいちばんよく知っているが、その解釈については本人がいちばん知っているとは限らないから、仲間の存在が必要になる」ええ、それもそうなのでしょう。仲間。仲間の存在が必要だって……。

 このとき出てくる理論的枠組みについては手に余るので紹介しない。「構成的体制」や「あたふたモード・ぐるぐるモード・」などの言葉で詳しく説明されている。 

 

 第五章は実践編。綾屋紗月が当事者研究にはじめて参加したときのエピソードが書かれ、読み物として面白い。例えば彼女が参加した「ダルク女性ハウス」での体験をまとめるとこんな感じらしい。

 時間になって司会が、初参加の彼女に自己紹介を促す。次に司会の指示に従いならば、参加者が順番にグループのリーフレットを読み上げる。読みおえたあとに今日のミーティングのテーマ(この日は「先週一週間」)を決め、「言いっぱなし聞きっぱなし」のルールのもと、参加者が順繰りにそのテーマに沿って語っていく。唯一のやり取りは、自分が話す番になったときまず最初に「〇〇です」と言い、その場にいるから全員から「〇〇~」と儀礼的な応答があり、話し終わった司会者が「ありがとうございました」ということだけ。 

 ただ人の話を聞く、ただ自分が話すということによる、言葉をめぐる作用が興味深いものだった。

ひとつの「個人の語り」がいったん部分へと断片化され、断片のうち引用回数の多いものが「仲間の語り」として、メンバーひとりひとりの記憶のなかに登録される。

 少し違うが、俺がブログを書いて人のを読んでいるとき、そのような感じがある。「人殺しの顔をしろ」「ラーメンが獣臭い」「人生をかけている」。ダルク女性ハウスのあるメンバーがいう「人の言葉が感染してくる」も分かる。ブログのこの感じを、さらに即時的かつ双方向的な、空間と時間軸が凝縮しているのが当事者研究なのだろう。同じくブログでいえばその場その場で、人が書いた記事を聞き、自分で書いた記事を声に出して読むとすれば、さらに近いものになるかもしれない。……多分。

 そして最後にはタイトルが回収される。

 つながりの作法とはつまり、「世界や自己のイメージを共有すること」。「実験的日常を共有すること」。そして「暫定的な「等身大の自分」を共有すること」、「「二重性と偶然性」で共感すること」

 共有したり、共感したりする。共に。

自分に起きていることに対して、何か具体的な対処やケアが必要だったわけではなく、共有されることが解決法になるという局面が実は案外多い

 共有されるだけ解決されるというのはよく分かる。「明日、私は誰かのカノジョ」というマンガでは、家庭環境の違いによる分かり合えなさが描かれていたが、個人の解釈や意味の枠組みを通すまえに、そのまま共有することができればより寄り添えたのだろうな、と思されるシーンがあった。同情は理解ではない。解釈の押し付けだ。共感からはもっとも遠い。

 

 第六章は、「痛みが静かな悲しみに変わるには、数え切れないくらい同じ話を誰かに聞いてもらわないといけないですね」という言葉が胸に響いた。華倫変の『カリクラ』というマンガの短編に、中三の頃に空にフワフワ浮かぶ袋を追いかけていったら地元のヤンキーが吸ってたシンナーの袋でフクロにされてシンナー吸わされて中毒になってしまったキャラが出てきて、そのキャラは職場で「私は中二の頃まではごく普通の……」と毎日毎日その話をするせいで十日ほどで誰にも相手にされなくなり、職場のスミでシンナーを吸いながらミニテトリスをするようになってしまうシーンがある。数え切れないくらい同じ話を誰かに聞いてもらうのはとても難しい。そのためのつながりの作法、当事者研究のコミュニティなのだろう。

 

 ここまで四千字弱。これでも全然内容に触れることができていない。熊谷普一郎が述べた理論的な内容については感想では省略した。彼はあとがきで「ひとりで見る夢は悪夢でも、それを仲間と分かち合えばつながりになる。きっとあなたに必要なのは、そんな夢うつつの夕暮れ時を一緒に過ごす誰かなのではないだろうか」と書いた。あまりに温かく、あまりに私的な言葉ではないか。こういう言葉がさらっと出てくる感性があるから、俺は彼の文章に惹かれるのだ。そして、俺が読む本の巻末にインタビューでよく彼が出てくる。書くこと言うこと納得するしかなく、信頼が厚い。そしてたまにある詞的な表現にノックアウトされるのだ。『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』は俺が自信をもっておすすめできる本だ。