単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

武田綾乃「愛さなくても別に」を読む

 

 『愛さなくても別に』がよかったので感想を残しておきたい。

  武田綾乃『愛さなくても別に』は、機能不全家族のもとで暮らす日夜コンビニバイトに励む女子大生が主人公の現代小説。タイトルに含まれている愛の種類は、性愛ではなく、親と子の間の親愛が主なテーマとなっている。

 三人の女子大生が登場し、それぞれが家庭内に地獄を抱えている。あまり好きじゃない言葉を使えば、毒親がいっぱい出てくる。そして、毒親の子どもたちが自分の人生を取りもどそうとする際の葛藤、支え合い、罵り合いもまた出てくる。

 

 『愛されなくても別に』には、主に二つの魅力があるとかんじた。

 ひとつは、機能不全家族にまつわる困難さの見本市みたいな描写の数々。その生々しさ。この手の話に付きものの新興宗教、貧困もしくは売春といったテーマに加え、現代的なネオリベラリズムと自己責任論、廃課金、奨学金問題、パパ活。なんだか生きづらさの見本市になっている。

 もちろん、その描写がどれだけリアリティ溢れていようが、生々しかろうが、現代の空気感を切り取っていようが、そこがおもしろいってわけではない。

 もうひとつの、その地獄のような環境のなかで手にした居場所・コミュニティの心強さ。それこそが本作の魅力だろう。当事者エッセイではなく、オチも未来もある物語なのである。もっとも身近な人間が信用できない環境に育った二人が、臆病ながらゆっくりと歩み寄って関係性を深めていくのがいい。そして最強のふたりになる感じが特に。

 親子という血が繋がった苦しみの源泉となってしまう関係性と、血が繋がってない赤の他人同士の支え合う関係性があって、俺はそのどちらの関係性も心を奪われた。

 

 そして、家庭内の苦しみは外からは見えにくく、分かりにくい。

 私を苦しめるものが、もっと分かりやすい不幸なら良かったのに。そしたら私は堂々と自分が可哀想だと言い張れるのに。

 親が「あなたのために」とか「愛している」とか言葉にしているとき、その柔らかい息苦しさのなかで堂々と自分が可哀想と言い張るのは難しい。

 また、その分かりにくさはべつの難しさを生む。行き過ぎた放任主義と過干渉は、どちらにせよしんどいだろうが、お互いからすれば「羨ましい」となりかねない。やるせない。そういうことも読んでいて思った。

  

 それにしても、子からすれば、人間関係の中でも、生まれてまっさきに与えられたものが何より難しいってのは、一体何なのだろうね。親は親で、子に「殺したい」と思わせるために生み育てたわけではないんだろうし。子にとって呪いの言葉の代表格である「あなたのために」も、本心からやっていることだろうが、いつの間にか追い詰めているなんてことになってしまう。

 「響け! ユーフォニアム」シリーズ著者らしく、なるほど、そのような人間の機微があったなと思った。

 

ネタバレあり。

 ドラマとしては宮田と江永が手を取り合っていくとこがメインだろうが、個人的には二章の木村の物語が心に突き刺さった。

 過干渉の母親を持つ木村が、居場所を求めて新興宗教に騙されにいく。それを主人公が見下す。その構図が、残酷で、生々しい。機能不全家族と一言にいえど、その内実はあまりにバラエティ豊かなせいで、人のそれは見えにくい。そのせいで、宮田は「毒親バトルしようぜ毒親バトル」みたいな思考になって、木村のことを「甘えている」と断罪してしまう。木村に「見下しているんでしょ」と言われる。その通りで、宮田は「そんなものはたいした不幸ではない」と見下している。

 端からみると、木村の環境だって救いようがない。母からの過干渉の果てに自立という選択肢を先回りして塞がれている。新興宗教が提供するコミュニティにしか居場所を見出せないほどに追い込まれていた。

 愛されないのも、愛されすぎるのも、苦しみには違いないのに、他人の家庭環境のことは見えにくい。

 自己責任という言葉が大嫌いな宮田が、その言葉の刃を木村に向けてしまったのは何ともいえない気持ちになる。

 一章と三章だけなら、その感想は「いろいろあったけど、とりあえずはよかったよかった」で終わることができたが、二章の救われない木村の物語が挟まることで「愛されなくても別に」の物語が分厚くなったと思った。

 

 で、『愛されなくても別に』の宮田のように、家族幻想から目を覚ます機会が「こいつのことを殺したい」という殺意による、という契機はありふれたものなのだろうか。俺がまさにそうだったから違和感なく読み進めていたが、あの展開ははたしてドラマチックと捉えられるのだろうかと気になった。あるあるネタじゃないのかと。

 江永の生育環境は、壮絶そのもの。そのうえで、たくましく生きて、生きることが復讐になるという生死観を持つようになったのは、なんというか、よかった。

 小学生の頃に父に犯され、その父は殺人鬼になり、母に売春を強要され、親元から離れ生活するためにSNSで体を売ったら父の被害者と出会う。どこまでいっても辛酸な人生なのだけど、宮田の「大丈夫ですよ」という言葉で、「アタシは大丈夫だ、まだ生きてられるって」と気持ちになったエピソードはじんわりきた。

 したって、お互いに「どうして助けてくれたの?」と思い合うのは、いい話に違いない。依存気味ではあるとはいえ、適切な依存こそが依存症の治療になると最近はよく目にするから、ふたりは理想的な関係を築けているのだろう。きっと。そうであってほしい。

 

 好きな展開は、江永が宮田と近づきたくて同じコンビニにバイトしだして、声をかけられたときに内心とてもはしゃいでいたことを告白するシーン。健気。めったにお目にかかることができない地獄みたいな環境から生還した彼女が、そのような気持ちで接し合える相手がいてよかった。

 それと「二十歳までに死ぬ」という思いこみが、「自分のために頑張れるのがそこまでじゃない」という考えは腑に落ちた。

 

 余談その一。

 江永が宮田に「ねえ、宮田はアタシと抱ける」と問いかけるシーンでは、『明日、私は誰かのカノジョ』を思いだした。あの漫画では「だって私のこと抱いてくれないじゃん!」みたいなやり取りだったような。

 というか、両者の作品には設定も時代背景も登場キャラクターを取りまく環境も近いものがある。オススメするならその層だよなあと思いつつ、一体その層に該当する人々が具体的には分からない。

 分からないといえば、今作は「現代的」な作品なのだろうが、それもじつは分かっていない。俺は「あるある」ネタとしても楽しめたが、本当にあるあるなのかも分からない。

 

 余談その二。 

『愛さなくても別に』を読みながら、久しぶりに思いだした記憶がある。

 俺が小学生で姉が高校生のとき、母に面と向かって「一年前はあなたを殺して家を出ようと思っていた。彼氏に止められたからやらなかったけど」と言い放ち、たまたまそれを聞いてしまった俺は「この人はなんて恐ろしいことを言うんだろう」と衝撃を受けた。しばらく眠れなかった。ただ数年後には俺も「殺したい」と同じことを考えるようになって、それと同時に子全員に「殺したい」と思われるとは親はなんて大変なんだろうと気の毒にもなったのだった。

 そんな「あんた(母)を殺したい」と語っていた姉は、その頃は包丁を持って殺す殺さないの言い争いをしたのだが、いまでは姉と母は仲がいい。姉が母という立場になってからは態度が軟化し、母と少しずつ和解していった。今では仲良しといっていいぐらいにやり取りしているらしい。姉は自身が母となって、ようやく母を許せるようになったようだ。

 これが物語だったら「親になったら分かる」を地でいくしょうもないオチとしか言いようがなく、俺はきっと読んだことを後悔することになるだろうが、「愛されなくても別に」はそういう展開じゃなくてよかった。

 

 爽快かつ、爽快じゃないものを含んだ、心を乱されるすごい小説だった。