単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

総障害者化、自己責任、決定論、椅子取りゲーム

 「精神障害者」という字面は強い。成り行きでそうなった身からすれば、手帳を習得するかどうかの違いしか感じなかったが、この感じ方はおそらく一般的ではないだろう。

 

 障害について様々な著書を出している熊谷晋一郎はコロナによって「総障害者化した」と発言した。

 障害はどこにあるのか。個人に内在しているわけではなく、個人の属性でもなく、個人と社会環境との関係性において障害が「ある」。

 このように障害を捉える考え方を「社会モデル」と呼ぶ。そもそも「脳は環境に散在してい」て。人間が真空状態において行動していない以上、行動には社会的環境は必ず関わっている。

 そして、障害とは、行動全般に対する障害に他ならない。社会モデルで捉えると、自己が変化せずにとも、社会が変化すれば、行動に障害が生まれることがある。

 「総障害者化」に込められた意味は、「社会が生きづらくなった」という意味と、そう遠くはなさそうだ。

 

 障害にまつわる話のなかで、社会モデルがここまで取り上げられるようになったのは、近年の自己責任論の趨勢への反発もあるのかもしれない。

 階級上昇が可能という幻想が維持されているかぎり、それを成し遂げられなかったのは個人の責任に帰しやすく、現代社会ではその幻想が維持されやすい。「がんばればちゃんとできるのに、ちゃんとできていないのはがんばってないからだ」というように。自己責任論には幻想(フィクションでも可)が前提とされている。

 個々のケースで当てはまることを一般化してしまうのは典型的な帰属バイアスとして知られている。そうは理解していながら、統計で示される無機質な数字よりも、「成功者」のドラマチックな成り上がりストーリーのほうが耳目を集め、確からしさがある。そして、幻想は強化される。

 とはいえ、すべてが自己責任ではないと断言してしまえば今度は、すべては前提の社会的条件から演繹され決定されているという決定論になり変わる。

 「全部あんたのせい」と「全部社会のせい」という二項対立で考えている以上、自己責任か決定論かの不毛なナワバリバトルから逃れられない。

 決着はつかない。信念の衝突である以上は。

 俺は俺の信念に従い、ひたすら「あなたを選んで生まれてきたわけではない、それだけはありえない」、と言いつづけるだけだ。

 

 それにしても「障害者」という字面は強いよなあ。

 結局、精神障害者と健常者の違いを正確に分けるならば、精神障害者手帳を所持しているどうかに過ぎない。もしくは、ミライロIDに登録しているかどうかに過ぎない。

 申請してから手元に届くまでの三か月はまだ精神障害者ではない。二年後の更新を忘れてしまったら精神障害者ではなくなる。精神障害者手帳の更新申請を出したが、更新手続きが完了する前に期限が切れたので、俺はいま精神障害者ではなくなっている。

 俺にとっては便宜的な意味しかない。社会通念上では大きな意味を持つ。

 なんというか、どう受け取っていいのかいまだによく分からない。よく分からないままで精神障害者という椅子に座っている。

 

 「総障害者化」なのだろう。誰しもが程度の差こそあれ、精神障害者なのだろう。ただ現在の日本ではさらに基準を設けて、「日常生活もしくは社会生活が制限を受けるか、日常生活もしくは社会生活に制限を加えることを必要とする程度のもの」と精神科医が判断して申請書に書き、それが自治体に受諾されて、認可されれば、ようやく三級の手帳が与えられる。そこではじめて精神障害者となり、少しばかりの恩恵にあずかれるようになる。(少しではないというような話を聞くようにもなった)

 

 「みんな苦しい」という言葉は、もしそうであるならば連帯の契機をそこに見いだすこともできるだろう。

 しかし、「みんな苦しい」が他人の苦悩を「誰しもある」という有無の問題に単純化し、他人の苦しみを拒絶するのが一般的な使われ方なのが現状だ。

 「総障害者化」も、字面の通りに受けとめてしまうと分断線をなくして特定の個人だけを支援の対象にすることを辞めるべき、という意見が出てきてもおかしくない。「みんなそう」なのだから。「苦しいのはあなただけじゃない」のだから。と。みんなにまつわる、平等と公平の履き違いが起こる。

 「みんな苦しい」とはいえ、そこに程度問題があり、行政支援の対象に該当するかどうかには明確な線引きをする必要がある。「総障害者化」という言葉は、有限の社会的リソースによって支援が賄われている現状には適していない。この言葉を社会モデルという枠組みの外に持ち出して使うのは難しいようだ。

 

 俺が「精神障害者」になれたのは、社会の各所で行われている椅子取りゲームの一つで勝ち残ったのだろう。たまたま、診断書に記述しやすく受理されやすい「日常生活もしくは社会生活が制限を受ける」行動特性を持ちあわせていた。

 俺はここで、その資格が有限のリソースのもと運営されていて限定されている状況を、椅子取りゲームと表現している。が、あまり適切とはいえない。

 そもそも俺は人生で一度たりとも椅子取りゲームやったことない。その存在はよく例えとして使われているから知っている。 

 

 俺がこのような雑な例えを持ちだすときは、もう深く考えることを辞めたという宣言になっているようだ。最近それに気づいた。 

 

 生きていくのはしんどいという話をしている。もうずっと生きていくのはしんどいという話しかできていない。

 人殺しの顔をしたいのに、社会に殺されるという顔になってしまう。そんな顔で椅子に座っている。