単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

酩酊日記 part2

 Flying Lotusの『You're Dead!』 を聞きながら書いている。二十五歳以降ならば人生でもっとも多く聞いたアルバムと断言できる。

 もうだいぶ前だが、このアルバムがトリップしている状態でどのように響くのか気になる一心で生まれてはじめてODを試してみた。急に流行りはじめたDXM。摂取量を間違えたのか、そのときの記憶はあまりない。一日がすっぽりと抜け落ちて驚いた。 

 唯一覚えているのが、脳が膨張し破裂しそうになりながら「このままでは死ぬ。救急車を呼んだほうがいいか。恥だし迷惑だしどうしたらいいのか」と逡巡した挙句、「そういえば俺って別に死んでもよかった」と気が楽になったことを覚えている。

 

 「そういえば俺って別に死んでも良かった」という態度はパニック発作が起きて「死にそう」という不安が膨れあがったときにも役に立っている。

 とはいえ別に毎日そう思っているわけでもないので、タイミングによってはガタガタ震えて歯をカチカチ鳴らして意識が真っ白になるときもある。

 

 自殺したい一方で、「自殺はよくない」という倫理感を否定できないので、俺はなぜか自殺予防の本をよく読むようになった。

 今回は『つながりからみた自殺予防』を読んだ。

 参考になったのが、日本の自殺予防対策は自死遺族団体であるNPOライフリンクが中心になっていること。その活動には精神科医や自殺予防専門家はほとんど関与していない。明確に社会的対策を重視している。ということ。

 その状況に著者は苦言を呈する。

 しかし一方で、世界的にみて自殺予防対策の中で最も重視されている精神保健福祉対策にはあまり触れず、自治体の首長を集め、社会的対策ばかりを全国で強調している様子をみると、トップダウンで行われるそれらの対策が、今死にたいと思っている当事者主体の支援といえるのか不安を抱かざるを得ない。

『つながりからみた自殺予防』

 

 『つながりからみた自殺予防』でも壱百満天原サロメ嬢が配信でも語っていたが、大半の人は「死にたい」と思ったことがないらしい。  

 Amazonで自殺に関する本のページを開いたときにある「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」には自殺に関する本が並んでいるという豆知識。

 

 ロールシャッハ・テストを受けたとき、そのカウセンラーにいら立っていたので、適当に「虫です」「虫に見えます」「虫です」「虫」と答えた。ため息をつかれた。結果は特に知らされることはなかった。

www.youtube.com

 ちなみにロールシャッハ・テストの正解は、天使か怪物らしいと『さよならを教えて』に書いてあった。

 やっぱ虫なのでは。昆虫の形体の多様性すごいし、サイズ的にもおそらく虫だろう。

 

 そういえば、兵庫や大阪では、あまりクワガタを見かけないと甥が言っていた。カナヘビも見かけないらしい。俺が小さい頃の友だちだったカナヘビがいないらしい。

 夏、道端でスズメが蝉を食べていた。伏見稲荷の出店でスズメの丸焼きを食べることができる。一度だけ食べた。小骨が多くて味は野生でひとことでいえば不味かった。

 

  話題になってる『ニセモノの錬金術師』が話題になってるよりおもしろい。「この作品をはじめて読むことは一度きり、たった一度きり」と一話ずつゆっくり読み進めている。

 「ハンターハンター的面白さ」という指標があり、『ニセモノの錬金術師』や『かんかん橋をわたって』がそれに当てはまるが、その指標の内実はよく分かっていない。とはいえ、なぜか「ハンターハンター的面白さ」と感じてしまう。

 

 何かしら俺が知らないところで人生半分損してるらしい。

 そう言われればそうとしか思えなくなってきた。

 全損はしていない。

 

 『KICK BACK』の「4443で外れる炭酸水」は自販機の抽選で、さらに幸せと読み込むことができるかもしれないが、俺は「チェンソーマンのデンジの「胸を揉みたい」からは性欲以上の意味を読み取らない」という解釈共同体に属しているので、「4443で外れる炭酸水」は自販機の抽選のことだったりする。

 

 

 炎上しても歌がうまい。泥酔してもゲームがうまい。幸せになりたいよりかは楽になりたい。

 もうずっと、酔いすぎるか、まったく酔わないかになっている。

 酔っていながらゲームをしているが、まったく下手になってない。なぜなら、酔っているときに下手になっていることには気づけないから。

  

 結局のところ、俺は「難しい」か「よく分からない」って書いてるだけ。そうやって判断を保留しているだけ。その態度は「分かったふり」をするよりかはマシだと思っているだけ。

 何も分からない。まったく分からない。みんな難しいことを言うので何も分からない。

 

 人の顔はうるさいのであまり見たくない。顔の情報量はすごい。秒単位で移りかわっていく。疲れる。応答する必要がなければべつに問題はない。応答する必要があるとほんと疲れる。

 「人の気持ちがよく分からない」は、俺の場合はただ「人の顔をよく見ていなかった」だけだった。

 それで診断書に「他者と適切なコミュニケーションが取れない」と書かれていて精神障害者三級手帳が手元に届く。それならば俺は障害的に人の表情に応答したくないのだろう。障害的なまでに。 

 

 俺はついになりたくなかった「最近の曲は主題歌しかよく知らない人」になってしまった。

 

 Adoの『新時代』いい。「絵じゃん」「炎上して歌はうまい」とは、『明日、私は誰かのカノジョ』の台詞ですが、Adoの『新時代』はすばらしい。次点で『螺旋』。

 twitterで敬愛しているノベルゲーム作家が、椎名林檎がAdoについて「出会っていたら代わりにぜんぶ歌ってもらっていた」とインタビューで語っていたことに対して複雑な思いをツイートしていた。

 まえに敬愛しているノベルゲーム作家の配信を見ていて「関内関外日記」が好きと知ってとても嬉しかった。
 

 自分が好きなものを同じく好きな人がいるのは嬉しい。一方で、自分が嫌いなものを同じく嫌いな人がいても何とも思わない。

 生誕の災厄教なので、この世にあるすべてのものが嫌いなのは当たり前だと思っている。その中で、そうでないものは奇跡だと思っている。

  

 非ベンゾジアゼピン睡眠薬とアルコールを組み合わせても気持ちよくもならないし狂いもしないし前向性健忘も生じない。ただ眠くなるだけで、眠くなれない夜を過ごしたことがあると、眠くなれてよかったとホッとする。

 

 酔いの深度が深いと何を書いたかのすら書くうちから忘れていく。俺みたいな頭が悪く育ちが悪く無能で社会性もなく人生を薬やアルコールの血中濃度でごまかしている人間がインターネット上に何を書いたところで一切の影響がなくてよかった。

 

 自殺予防の本を読みすぎたせいで気軽に「死にたい」と言えないし書けなくなっている。

 気軽に「死にたい」でいいじゃんと思う。別に死ななくても死にたいでいいし、健康寿命を全うしようと思っていても死にたいでいいし、自殺予防の本には「死にたいは両価性であり、その言葉の裏には生きたいという気持ちもある」と書かれているから死にたいでいいと思うし。

 

 この世に死にたい歌が少なすぎる。精一杯かき集めているのにたいした量にならない。

 

 死にたい死にたい書いたり言ったりしたのに死んでないの恥ずかしいと感じる気持ちがあるが、中学生の頃に親戚一同集まったときに親が押し付けて俺の能力には高望みすぎる将来の夢を口走ったこと以上に恥ずかしいことはないな。

 

 馬鹿な子供に高望みの夢を押し付け、それを達成できないときは自死するとほのめかすと、子供はたいへん苦しむので気を付けましょう。

 俺、全然親を許してないし、過去を割り切れてないし、殺したいし、恥晒したときに居合わせた人がとっとはやく死んで欲しいし、とばっちりでしかないし、その願いが叶うよりかは俺が死んだ方が手っ取り早い。

 なんでこうなってしまったんだろう。みんな言ってるし、俺も言っちゃう。「なんでこうなってしまったんだろう」の大合唱が起きている。

 乱入してきた自己責任論者に殴られながらも歌うことを止めてはならない。

 

 死にたい、死にたすぎてドラマで見かけたら笑ってしまいそうなほどに今泣いていて、そんな自分がおもしろい。

 

 もう楽になりたい。なんでずっとこうもしんどくないといけないのか。「あなたを選んで生まれてきたよ」ってはじめに思いついたやつに、俺の好きな「あなたを選んで生まれ来たわけではない」系作品をすべて読ませてあげたい。『愛されなくても別に』『暗い部屋』『パニッシュメント』、あと岸田秀の『心はなぜ苦しむのか』は絶対にリストに加える。

 岸田秀の『心はなぜ苦しむのか』は内容はともかく中盤くらいで対談相手に「親を許せ」と詰め寄られるが「いや許さない」と頑なに返答するのがおもしろい。岸田秀の親はとっくに亡くなっていて本人は老年の域に達しているのにそれでもまったく怒りが冷めてないのがすごい。六秒ではなく六十年間なのですごい。

 

 死ねば楽になれるのにな。なんで死んでないんだろう。

 親を殺せばよかったし、親が自殺すればよかったし、俺は生まれなかったほうがよかたし、何もかもうまくいかねえのにおもしろすぎる物語が多すぎる。