単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

ラッキー

 酔いつづけるのが上手くなりすぎてしまった。軽く十時間以上は酔っているっぽい。その二倍かもしれない。わからない。

 

 泥酔し、すでに明日を落としているっぽいので、明日はおそらく休日になるだろう。

 簡単に休日にできるような職には社会的地位も持続可能性もない。ただただ俺は機械よりコストがかからないだけで人生をやれている。低性能だが低コストの代替マニピュレーターとなって日銭を稼いで生きている。

 

 
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 高校時代にSyrup16gの『明日を落としても』の弾き語りをしたくてカポタストを買った。。

 

 茜霧島がワゴンセールだったからって大量買いしたのよくなかった。焼酎はストレートで飲んで喉が痛くならないのもよくなかった。酒に酔えるような体質なのがよくなかった。そもそも生まれてきたのがよくなかった。

 

 つーか、俺の生活は傍からみれば(社会通念に照らし合わせれば)限界一歩手前に違いない。そう理解しているが、一方で俺は抗うつ剤向精神薬やアルコールやコンテンツでごまかすことが上手いせいで別になんともないって顔を取り繕えている。

 いつからか湧きあがってくる不安に飽きてしまってついには向き合おうとしなくなった。

 不安はパニック障害になってから役に立たないと思ってしまった。

 それは解決すべき問題ではなく、誤魔化せばいい問題と思ってしまうようになった。

 

 酔っているときにやりたくなることがブログを書くってどなんでだろう。酔っているときにだけブログを書きたくなるのなんでだろう。

 

 俺の飲酒筆記は人を傷付けない。と思う。

 俺がいくら書いてブログを更新したところで読まれないか読み飛ばされるので人を傷付けることがない。

 文章力がなくて、耳目を集めるような文章を書けなくてよかった。俺が馬鹿で無能でよかった。大学に行けなくてよかった。ブログくらいでしか文章を書く機会がなくてよかった。

 もし俺に文章力があれば多くの人に読まれてしまって、そのとき俺の書くことは一般的ではないらしいので人を傷付けてしまう恐れがあった。そうではなくてよかった。

 そういう風に思ってないと何も書けなくなる。

 

 もっと読まれたいし読まれたくないという気持ちは、死にたいし生きたいという気持ちと似ていて、つまり両価性という言葉が当てはまる。

 社会に適応するために「死にたいと思うこともありますが実は生きたいとも思っています。せめぎ合っています。助けてください。」という顔をしている。バレていないのでたまに同僚から何かしらの会に誘われるが「あー、その日はちょっと予定があって参加できないですね。また今度誘わってください」で毎回断っている。頻繁に職場が変わるのでこの態度が通用しつづけてしまう。

 

 俺は援助希求能力をなくしてしまった。「俺はもういい加減死ねばいい」としか思えないのに「助けて」とは言えないし、言いたくない。

 

 馬鹿で無能で高卒なので二項対立でしか物事を捉えることができない。弁証法脱構築という言葉を目にすると説教されているような気分になる。

 

 「頑張ったご褒美」に睡眠導入剤を3mg以上飲むことがある。そこそこなら4.5mgで、かなりなら6mgくらい。

 ここ最近は自分にご褒美を与えすぎてついに睡眠導入剤が枯渇してしまう事態になった。個人輸入可能な医薬品等の数量の限度で購入した薬の在庫も数少なくなってしまった。睡眠導入剤を飲まない夜というのはあり得ない。

 それで精神科医に「部屋が汚くて睡眠薬を失くしてしまうのでもっと処方できませんか?」と尋ねたら「抗うつ剤精神安定剤は大丈夫なの?」と返されてしどろもどろしてしまった。

 頑張ったご褒美に睡眠導入剤をちょっと多めに飲んでいることが恥ずかしいと思ってしまった。

 

 俺が俺であることにじんわりと傷付いている。俺が俺でしかないというのはしんどい。

 なんで俺は、俺の脳で、俺の体でしか生きられないのだろうか。俺の言葉でしか言葉を綴れないのだろう。

 もしかして、いやきっとそうではないと信じたいが、俺ってこのままずっと死ぬまで俺なのか。

 

 夕食後の抗うつ剤を飲んだか飲んでないかよく分からなくなることが頻繁にある。それ以前に面倒くさくて夕食を取らないこともたまにある。

 飲んだか飲んでないか分からないときは50mg飲むことにしている。すでに処方された100mg飲んでいたとしても150mgになるだけ。血中濃度は安定する。150mgは日本では許可されていない量だが海外では許可されている量だと知っているので問題はない。

 

 抗うつ剤を日本で許可されている範囲内で最大量摂取している。

 それ以前の俺と、今の俺に比べてどのように変わってしまったのか分からない。抗うつ剤の副作用で性欲が消えていたのは一か月くらいで、それ以降はますます以前の俺とどう変わったのか分からない。

 俺は俺でない方がいいので分からなくても何の問題もなかった。

 

 精神障害者手帳の更新の時期になり、精神障害者三級になった。「お前の生きづらさは三級ぐらい」と判を押されたようで気に食わない。不幸バトルをするつもりはない。他人と比べるようなものはない。

 別に精神障害者手帳の等級は苦痛の等級ではない。生活上の困難の等級であり、それはまた行動の障害でしかない。

 苦痛はどうしたって可視化されることはない。だからないがしろにされるし、想定以上に重んじられる。ちょうどいいくらいに受けとられることはない。

 

 ニンテンドースイッチのアルバムフォルダに『グリザイアの果実』の「自分が一番かわいそうと思っていたからこそ生きて、なんとか生きて来れたという部分も少なからずあったのよね…わたし達には」っていう一文のスクショがあった。戦場ヶ原ひたぎみたいなキャラ(みちる以外のキャラクターの名前を忘れた、名前は親から与えられた認識ラベルぐらいにしか思ってないのですぐに忘れる)がそう言っていた。

 

 俺がいつまでもたっても向きあえていない過去は、医者家系に生まれて親から医者になれと一万回ほど言われていたのに、結局は高卒になってしまったこと。

 俺が俺を弁護すれば、母がスピリチュアルに傾倒し散財したせいで私立医学部の選択肢はなくなり、医者になるには国立医学部しかなくなったことで、さらに俺は発達障害と診断を貰えるくらいにはケアレスミスが多く、そもそも馬鹿で無能で面倒くさがりだったからしょうがない。

 受験生のときは朝五時に起きて学校に行き、夜九時まで学校に残って勉強した。浪人生時代は、一日中勉強していた。文字通りに一日中だった。当時、過去のセンター試験はすべて解いたことがあり、俺が一番好きだった出題された文章は「僕はかぐや姫」だった。

 一日中ずっと勉強をすれば馬鹿でも成績は伸びる。ある程度までは。すべてのテストが怖かった。

 

 結局、俺ができる範囲で頑張ったところでだめだった。何というか、一日中数年勉強してもダメだったので、努力ではどうしようもないと思うしかなかった。それでも「医者になれ」という声が消えることがなかった。母が「そうでならなかったらわたしは死ぬ」と逃げ道を塞いだせいでどうしようもなくなり俺は追い込まれていった。

 俺が医者になる、もしくは親が死ぬ。その二択しか選択肢として表示されなかった。

 そんで、ついに心が折れた。パニック発作になり、夜尿症にもなった。さんざんだった。この先もうどうしたらいいのか分からなかった。

 で結局は「親が死ぬの選択肢でいいのでは。というか、親を殺すという選択肢もあるのでは」と洗脳は緩やかにほどけていった。それから親に面と向かって思いのたけを吐露し、いざ殺そうと向きあってみたら急に謝罪してきたので、俺は振りあげた拳を空しく下し、ここまでが俺の二十歳までの「洗脳」というタイトルが相応しい思い出になる。

 ちなみに、母は姉に殺されそうになったので、人生で二度ほど子に殺されそうになっている。

 ここまでくれば「親という立場が大変」としか思えない。親はすごい。親はがんばっている。それでもどうしようもないこともある。親は大変なのだ。どうしようもないのだ。

 さらに言えば子どもに殺したいと思われない親はほんとうにすごい。どうやったらそのような子育てができるかまったく想像がつかない。みんなすごいことをさらっとやっている。

 親という立場が、「親は親らしくならればならない」という社会的圧力の中で、親をやっているのはすごいとしかいいようがない。

 スピリチュアルにハマってもおかしくないし、うさん臭い占い師に大金を貢いでもおかしくないし、子に殺意を抱かれもまったくおかしくない。ほんとうは親を殺したいのにまちがって親以外を殺してしまっても何も不思議ではない。

 よくよく考えてみれば何もおかしくなかった。

 支援の人にやんわりと「そう思う気持ちは確かでしょうが、そうでない捉え方もできるようになるといいですね」的なことを言われて俺はその人に好感を持っていたのでそうでありたい。 

 

 俺が立ち直れたのは、二十歳の頃に岸田秀や中道義道の本を読んで「そうか、親を殺せば済む話なんだ!親なんて容易く殺せることができる!死にたいって言ってたし、俺はそのようになれなかったし、殺して楽にしたほうがいいな!」と思えるようになったから。

 本はいい。たくさんの字を読みましょう。

 

 酔いつづけられるのはきっと才能なのだろう。姉は酒を一滴でも飲むと体調が悪くなってしまう体質だし。

 アルコールを摂取し、アルコールで現実を誤魔化せることができることが、俺に良いのか悪いのかは分からない。

 

 分からないものを大量に抱えたまま死んでいく。この世界というのは、人間の認知能力で捉えきれない。小坂井敏晶の言葉を借りれば「人間には閉ざされている」なのだろう。とはいえスピリチュアルには最大の警戒心を持つことは忘れない。

 

 母の口癖は「時間と未来は平等にやってくる」と「あんたがちゃんとしないと私は死ぬかもしれない」だった。あと母が夜遊びに出かけているとき(俺は小さくて分かってなかったがどうやら不倫していたらしい)に皿を洗っていないと不機嫌になっていた。

 そのおかげで、皿を洗うことに抵抗ない人間になった。

 母が作る飯もたいしてうまくなかったおかげで、いまの同じものを食べつづける生活にストレスを感じなくてよかった。

 よかった。

 

 前にハマっていた「みんなで早押しクイズ」というアプリで知ったんですが、時速36km の『動物的な暮らし』とbattaの『人間らしい暮らし』を並べると面白くないですか?

 


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 おれみたいに月曜日をすっぽかすような暮らしを羨ましいと思うのならば生活水準を下げるといいですよ。具体的には、関西の兵庫県大阪駅の間くらいの治安があまり良くない地域で家賃3万以下の1Rのマンションで同じものを食べつづけて機械よりコストがかからないので見逃されている反復的肉体運動をするような職やっていれば似たような暮らしができます。

 がんばれがんばれがんばれ。