単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

『明日、私は誰かのカノジョ』の五章感想追記やインタビューを読んでなどの補足記事

 五章の感想の補足記事。

 

 目次は、

・五章が「リアリティがない」らしいこと

・明日カノを知った経緯

・インタビューを読んだ

・俺と推し。

dnimmind.hatenablog.com

 『明日、私は誰かのカノジョ』の感想を書くのがムズい。いつもならば言葉がスッと出てこないときはストレスなのですぐに書くのやめる。ただ明日カノは書きたいので時間をかけて書いている。

 五章の感想はなんとか書けた。でも四章の感想はおそらく一生書けない。六章もきっと感想にはならないと思う。六章のほうがムズい。単行本ではまだ六章は終わっていないのにインタビューで軽いネタバレをもらった。

  

 で、本題で、俺が驚いたことにどうやら明日カノ五章はリアルではないらしいのだ。

 某職業の求人サイトで『明日、私はだれかのカノジョ』感想スレの書き込みを読んでいたら「店外無料でしかも泥酔するのはまったくリアルじゃない」という批判が多かった。そのせいで「取材不足」「そういえばこれ漫画だった」とまで書かれていた。

 それくらい店外はリアリティがない描写らしい。らしいのだ。少なくとも一部の層にとっては。

 俺は三章で「取材している」と評価していた。そのような評価は多く、インタビューでもその魅力についていろいろと語られていた。

 のだが、五章では「取材が足りない」となるらしい。

 俺のような「そもそも普通も正常も社会も全然わかっていない」読者ではなく、現代を生きて、明日カノを現代的な物語として、共感をもって、自己投影や感情移入(は俺でもするが)して読んでいる層にとって、リアリティは大事に決まっている。 

 のに、五章ではやらかしてしまったらしい。店外で。おまけに泥酔したいせいで。

 そういえば、以前の職場のソープ狂いの上司が「店外できたわ」と自慢気に語っていたのを思いだした。なぜあんなに自慢気になったのか分からなくて、それで「よかったですね」みたいなをあいづちうったのだった。

 明日カノのリアリティを何が担保していたのか、その一端が分かったような分からないような感じ。

 

 今さらだけど、俺が明日カノを知った経緯は、SF作家の樋口恭介のエッセイに出てきて気になって、その後にトー横界隈についてなぜか学びたくなって調べていたときに某ノンフィクション本のレビューに「こんなの読むより明日カノ読んだほうがいい」ってあり、とりあえずお試しの一話を読んでみた。そこで打ちのめされて今に至る。

 

 インタビューを読んだ。単行本派なのでネタバレを食らった。

realsound.jp

 予想していたように、丹寧に取材し編集者と打ち合わせを重ねて、明日カノのプロッとは制作されているらしい。当事者でも参与観察(雑にいえば取材元のコミュニティに参加して情報収集するようなやり方)でもないようだ。

 当事者に取材していないので五章は「店外はリアリティがない」と批判されることもあり、当事者に取材していなくても五章までは「リアリティがある」と称賛されているし。

 インタビューで知ったのが、をの先生がゆあてゃが若者のアイコンになって憧れの的になっていることに危機感を持っていることだった。そこまで社会的現象になっているとは知らなかった。歌舞伎町でクソでかい広告ポスターがあるのは知っていたが。そういえばサイコミのコメント欄で「これで風俗で働こうと思った子がいるかもしれないけど~」みたいなコメントがけっこうあった

 で、自分が描いたものが性風俗の手引き書になっている状況への危機感もあり、読者を立ち止まらせる狙いをこめて六章でその先について書いたようだ。

 なるほど、明日カノは社会現象なのだなとあらためて感じた。

 

 俺が「推し」と呼んでもよそうだった服装や髪型をマネくらいに憧れていてライブも頻繁に通っていたバンドのボーカルは、いつからかエセ医学やホメオパシー(高価なただの砂糖菓子)にハマってしまった。音楽雑誌で陰謀論の本をおすすめし、歌詞に陰謀論が出てくるようにもなった。彼にそれがどれほどの被害を与えたのかは分からないが、「推し」と「洗脳」でまっさきに浮かんだのがその思い出だった。ちなみにそのバンドのことは今でも好きだし、今でもいい曲を歌っている。

 あと推しではなかったが俺が中高時代にYUKIが好き(歌も顔も)になったときに掲示板の書き込みを読んでしまって初めてたぬきを覗いたときの心音みたいな気持ちになった。