単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

Syrup16gについて書こうとすると気持ち悪い文が書かれてしまう

 酔っているときに書いたものは酔っていないときに読み返すと気持ち悪くて面白いのでやってしまう。

 

 Syrup16gの『Les Misé blue』の全曲感想をコツコツと書いている。楽しい。いろんな言葉が溢れてくる。感傷や憐憫というような、お一人様専用の感情が迸っているせいで、それを出力すると当たり前だが気持ち悪い文が出てくる。自分の中から気持ち悪い言葉がいっぱい生まれてきて楽しい。

 「気持ち悪い人になれ」という教えがある。『月に寄りそう乙女の作法』か、『乙女理論とその周辺 -Ecole de Paris-』か、それらのアペンドかは忘れたがこのように語られていた。

実際、好きなものをどれだけ好きか語る時に、大抵は相手に引かれないことを意識して喋るだろう。その殻を破れ。気持ち悪い人になれ。

 Syrup16gについて書いているときは殻が勝手に破れて気持ち悪い人になってしまう。

 とはいえ、できるならば気持ち悪くないほうがいいに決まっている。適切な修辞語や洒落た形容詞でオブラートに包んだほうが受けがいいと分かっている。

 でもそういうの今は気にしてなくていい。別に二十四時間ずっと人間関係をやっているわけではないのだから。

 俺は「救われた」と表現することが受けつけない人の気持ちが分かる。そういうツイートに共感したし、一方で「救われた」というツイートにも共感した。

 「救われた」という言葉はチープだ。「人生の半分を損している」くらいに安易だろう。もしあなた「救われた」ならば、その経緯や変化こそ丁寧に掬いあげて言語化したほうがいいのでは?という意見は分かる。自分に多大な影響を与えたものについてそんなありきたりな言葉で済ましていいのか?と問われれば、それはあまりよくないんじゃないかなと俺は思う。

 でも『深緑の Morning glow』で「朝まで歌う うた」にたどり着いたときに、真っ先に浮かんできたのが「救われた」という言葉だった。しかも「過去と未来の朝になってしまった夜が救われはじめた」と気持ち悪い一文につづいてしまった。

 一方で、「救われた」という思い出はそもそもが俺にとってチープという思いがある。いつだって救われがたっている人間からすれば、救われることは日常の風景でしかなく、ことさら取り上げたほうがいいような大げさな感想ではない。毎日ではないが毎週くらいの頻度ではなにかに救われつづけている。そうやって生き延びている。

 俺はそのときそう思ったのだから、それでいいじゃないかと思う。どうしたって他者の視線は内面化されているし、その視線からは逃げることはできない。だいぶ気持ち悪いことを書いていそうだが、それならそうで気持ち悪くて別にいいじゃないかと思えてきた。もう今さら、だ。

 そもそも、もしかりに俺が気持ち悪いことを書いていたとしてもSyrup16gの『Les Misé blue』が魔法のCDのせいなので仕方がないのだ。魔法のCDと、人生でかつてないほどにしんどいときに救われたと感じた愛してやまないバンドの五年振りのニューアルバムは人を気持ち悪い人にさせてしまうのだ。そう。