今日は『silent』と『ぼっち・ざ・ろっく』をかわるがわる観てたんだけど、どっちも下北沢が舞台だし、モチーフになってるのはスピッツとアジカンだし、主人公たちは音楽好きだし、時代も場所もいろいろ隣接してるはずなのにめちゃめちゃ高低差あってクラクラするこの感じ。
— 柴 那典 (@shiba710) 2022年12月28日
部屋のもっとも信頼できる暖房器具の電気毛布を敷いたベットに寝転がってKindle Unlimitedにある西村賢太の小説・エッセイを読んでいた。
西村賢太の東京にまつわるエッセイの『東京者がたり』〈下北沢編〉でこの地についてさんざんに書いてあった。
いくつか抜粋してみる。
「今回は私が都内で最も胸糞悪いアウェーの地」
「ともに、概して田舎出の者が多いのが不思議だが、つまるところ東京に来て調子にのっている田舎者が、本当に不愉快でならないのだ」
「その街を闊歩していっぱしの東京人を気取る百姓と、それを許容する周囲との甘えた馴れ合いは気味が悪くて仕方がない」
「まったくもって人も街も安雑貨だ」
しまいには彼が小劇場でおこなわれるトークショーの出演の為に久しぶりに足を運んだときの感想が「結句その胸糞の悪さを改めて認識した次第だ」という始末である。
おれが東京に生息していた頃に下北沢には何度か行ったことがある。駅前の回転寿司屋でPsysalia Psysalis Psycheのボーカルに出会ったことくらいしか覚えていない。
二〇二二年は『silent』と『ぼっち・ざ・ろっく』が流行った。
それぞれ『silinet』はろう文化の理解度のなさと「優生」に関する批判はまっとうでその上でドラマとしてすばらしく、『ぼっち・ざ・ろっく』は最終話でアル中の廣井きくり(八十八ヶ所巡礼!)がぼっちちゃんの晴れ舞台に奮発して二百円以上するワンカップ日本酒を飲酒したおかげで奇跡が起きたシーンはすばらしかったことを書いておけば、五年後くらいに思いだしてそんなこともあったなと思える日が生きていればくるのだろう。