単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

Steins;Gate 第20話「怨嗟断絶のアポトーシス」 感想


   窒息しそうな正しい街で。

 タイトルにあるアポトーシスwikipedia先生によると「個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死」という意味らしいです。自殺したのは一人しかいませんから誰の事を示してるのかはすぐに分かって切ないです。そのアポトーシスにさらに怨嗟断絶なんて禍々しい形容詞が付いているせいか、どうにもタイトルの時点から過酷な内容を予想される今回の20話です。

 じっさいに見てみたら、きゅっと胸が締まるストーリーでした。


 まず、見ていて嬉しかったのが助手の手助け。役割としてはまさに文字通りの助手というわけで、思うに彼女がそー嫌がるほど悪いあだ名でもないんじゃないかと。でも、すでに岡部にとって彼女はもう助手以上の存在ですからね。 助手ではないのです。牧瀬紅莉栖です。かわいいです。
 彼女は一人の人間として真正面から扱わられたいという願望があって。というか、
岡部にとっては牧瀬紅莉栖は冗談でもなくて最初はただの助手だったのかな。でも、今はもうそうじゃないですよね。あれだけ支えて貰ったからには、もはや感謝の気持ちだけでなくて愛なんかも生まれたり……? まだ分からないですが。


 そんな彼女のサポートによって(ここ重要!)、前回から完全に余裕をなくして感情的になっていた岡部も、冷静にIBSN5100FBを手に入れるために
FBを探す行動を取れました。しかも、萌郁も手伝うということでして。彼女を動かさしたのはきっと岡部倫太郎のなりふり構わない熱意でしょう。



 前回では、岡部が一方的に感情をぶつけて挙句の果てには暴力も振るっていましたが、
萌郁もその理由をあれだけの想いと共に聞かされて、彼女なりに思うことがあったに違いない。それほどまでに岡部は必死で真剣で。それと「死ぬ」と聞かされて、じゃあやりたいことをしよう、と思ったのもあるでしょうね。しかし、その勇気は………。



 青空。蝉が鳴いていて、きっと今日みたいに暑い日。天気の良い日に告白される罪と罰


 FBはブラウンを愛する紳士のミスターブラウンで、彼もまたSERNに利用されていた操り人形だった。生きるためとはいえ組織にはいって罪を重ねてきたFB。裏切り者の手下を処分し、自らも消去した。
 つーか、これはあまりにも悲しい結末。誰も救われていない。「Dメール」があるからといっても、あったことすら認めたくない世界です。でも、岡部はそれすらを背負って生きていかないといけない。なんて過酷な運命だ。あらためて分かる。


 でも、FBが正しくないんですよね。どう考えてもFBが選んだ選択肢はあまりにも無責任。正当化するにはやりすぎている。でも、それは仕方ないというか、それがどうしようもない人間の弱さというか。それでこそ岡部倫太郎はまゆりを助けるために正しく尽力していますが、もし
牧瀬紅莉栖がいなかったら、きっと正しさを失くしてどんなことでもしたかもしれない。だから、FBと萌郁を責めることはできませんね。


 で、終盤。岡部がちょっと落ち着いて
紅莉栖と談笑しているときに気づいた恐ろしい事実。この展開の上手さにおもわず鳥肌です。薄々と分かっていたけど無意識に黙殺していたのか、あのとき牧瀬紅莉栖が口にしたことで初めて気づいたのか。どちらにせよ気づいた衝撃はびっくり!なんてもんじゃない。ついにシュターンズゲートの核心にたどり着きました。
 人間の行動というのはある意味では選択の積み重ねです。ここにきて岡部倫太郎は、何よりも分かりやすくて、何よりも残酷な選択肢についにぶち当たる。さあ、どちらを救うか。選べるわけなんてないだろう。


 右手のナイフで
牧瀬紅莉栖を刺すか、左の銃でまゆりを撃つか。岡部は行為の当事者ではないけれども、それを選択できる力をただ一人だけ所有しているから、本人の感覚としてはきっとこんな感じでしょう。もう辛いどころのレベルではないですよね。これまでの努力の果てにあったのが、この選択とは……。

 
このアニメ、知っていたけどかなり残酷。
まゆりも牧瀬紅莉栖も救ってください。

 
   

FBについて

 まずは悲しみの幕が下りた20話「「怨嗟断絶のアポトーシス」」の感想で貰ったコメントで、ちょっと見落としていた大事なことを気付かされたのでそれを書きます。

  私は、生きるためという純粋な理由からSERNの犬となったFBが、岡部に正体がばれて非を指摘されたときにとった行動の「萌を殺して子供を残して自害した」ことについてこのように書きました。

でも、FBが正しくないんですよね。どう考えてもFBが選んだ選択肢はあまりにも無責任。正当化するにはやりすぎている。でも、それは仕方ないというか、それがどうしようもない人間の弱さというか。

 それに対して「正しいとか正しくないではなくそうせざる得なかった」といった主旨のコメントを貰いました。

 それで気づかされたのが、あのシーンの解釈は「FBの選択が正しいかどうか」ではなくて、「あのFBですらもそうせざるえないほどに環境が過酷なものだった」という事実を示すことで、同じく過酷な運命と対峙していながらも紅莉栖を筆頭とする頼もしい仲間によって支えられている岡部が「恵まれている」ことをあえて対比させて描いていたのだろう、と思うようになりました。なんだかんだでFBはまっちょだしブラウン管好きだし優しいやつなんですよね。

 あの一連のシーンは、頼れる仲間がいることがどれだけありがたいのか、それを実感させる意味を持たせたパートだったのでしょう。
郁が孤独によってSERNに手を染めたのもそうです。岡部倫太郎は恵まれている。その事実は、SERNに操られた人々はかわいそうということではなくて、ただただ仲間がいてありがたいということだと思います。