単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

無力感は狂いの始まり/春日武彦、平山夢明


 もうここ数年ずっと無力感があってそんなちょうどいい時期に出会えた「無力感は狂いのはじまり」を読んで色々と分かったつもりになったので書評を書きます。


無力感は狂いの始まり 「狂い」の構造2 (扶桑社新書)
無力感は狂いの始まり 「狂い」の構造2 (扶桑社新書)

 
 正気じゃない! 人間の深層に眠る狂気の種を抉り出す不謹慎砲弾第二弾!というキャッチコピー。


 精神科医春日武彦とホラー作家の平山夢明の対談、そして自由気ままに人間を解体していく放談。気負いをまったく感じられないフランクな口調や身近な世間話から、殺人事件や人間の深層心理といった深刻な議論に発展していく彼らの対話は、卑俗であるが真実味を帯びた、新たな視点を気づかされてくれる刺激とウィットに溢れている。

 しかし、そこでの主張の大半は、二人の卑近なケーススタディを根拠にしているもので、その主張には妥当性がないという意見はあり得る。が、この本の魅力は その無根拠さゆえの鋭さにあり、論理的であることを超えた次元で「そうそう!分かる」!という深い納得を与えてくれる本である。


他人の赤ん坊の足を折った女(五月女)について

平山「結局、これもぼやきっていうかさ、五月女ちゃんは、漠然と幸せなイメージが嫌いだったんですかね?」

春日「まあ、そうだよね。引きずり込んでやるという感じだから。「懲らしめてやろうと思った」なんて、とんでもなく傲慢なことを言ってたんだよなあ。傲慢すぎて、うっとりする言葉だな。」

平山「何か幸せなものを見たりするとさ、反射的に攻撃されている感じを持つんじゃない? それか自分は努力してない人間だと非難されているような気がするのかもしれない。きっと。でも、五月女ちゃんは足を折っちゃったわけでしょう?それはやはり赤ん坊が憎いいうことになるの?」

春日「そこにやっぱり、妙なしょぼさを感じるわけ。本当に嫌だったら叩きつけて殺しちゃえばいいわけでさ。若干、自分の中にためらいがあって、じゃあ、中間を取って太ももを折ってみようと。ろくでもない行動とそれなりの良識がさ、混ざり合う感じなんだよね、この事件の嫌さというのは。」

平山「自己肯定の出来ていない人は、基本的に自分を被害者だと規定するんだよね。被害者だから、自分は善人なの。社会のシステムなり、両親とか世の中の人たちの不理解によって、私はこういう不幸な状態にいるんですと。望まずに、こういう人間にされてしまったんです。





 といっても、実際にさまざまな症例をみてきた春日武彦、作家として人間の闇を書き続けてきた平山夢明、彼らの主張は豊富な人生経験に裏打ちされているもので、かなり信用できるものだと感じた。

 そして、何よりこの不謹慎な対談が面白い。「日本人を幸せにするためにマリファナを許可しよう」と本気なのかふざけているのか、そのままの意味でのギリギリのやり取りが、矢次に交わされていく様はエンターテイメントとしても上質だ。


 
 って普通に書評っぽいもの書いてしまった。カテゴリを「書評」とか名づけたものだから、そこに引っ張られたせいか、ついつい真面目になってしまいますね。いけない。

 この本を読んでいちばん強烈だったのが、身近な犯罪者や、お茶の間を騒がすような狂人の振る舞いは、実は誰もが持っている意識とさほど変わらないかもしれない、ということでした。「被害者意識」「無力感」「想像力の欠如」「面倒くさい」、多くの方が抱え込んでいるであろう屈折した意識が、悪魔のささやきを唱え続けてじんわりと人間を狂わしていくものである、と。


 で、さらに恐ろしいのは、狂っているとすぐに分かるけど正しさははっきりとは分からないということですかね。ぼんやりと規範の人間像はあるし、「正しい」についてそれなりの解答は出せると思いますが、それは決して万人に通用するような強固な正しさではないです。狂いたくないなら「正しくあろう」としたいのだけでもすがることができる正しさは恐らく存在しない。


 できることのは狂気に飲み込まれないようにするだけ。なんてまるで人生を舞台にして鬼ごっこですね。安全な場所に隠れても追いつめられる。生まれたときからの強制的なゲーム参加。だからひらすら逃げる。死ぬまで逃げる。捕まったらきっとおしまい。絶望的な遊戯。


 さいきん「俺おかしいのかな」と感じたのは、まとめブログで個人が晒し物にされて貶されていて、「可哀想だけどまあでも仕方ないよね」と思ってしまった瞬間です。当たり前のように納得していた自分がいました。今だってなんだかんだであれを許容している自分がいます。仕方ないって。

 正しいってなんだろう。難しい。