単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

ハンターハンターの名解釈に付け加えたいこと/キメラアント編の問題のシーンについての考察


 今回はキメラアント編のあの問題のシーンについて語ります。
 HUNTER×HUNTER第299話「再生」の一連のシーンについてです。

 まずはすごい解釈だなーとおもって保存していたものを紹介。
 これは有名なようなのですでに見たことあるかもしれません。

420 名前:名無しさんの次レスにご期待下さい[] 投稿日:2010/03/04(木) 03:18:46 id:KYqAya7z0

冨樫終わっただ、漫画投げてるだいうのは簡単だよ

でもそれよか、
貧者の薔薇で手足もげた王を「赤ん坊」に見立てて、
それに栄養を施す護衛軍二匹を
「母」に仕立てた演出力に注目しよう


今回の話は「再誕」を描いてるわけで、
不完全な生まれ方をした王が、今やっとちゃんとした生誕を迎えたんだよ


ネテロの告げた名前「メルエム」と、
貧者の薔薇の自爆テロをきっかけにね


プフとユピーの過剰な喜びは、
子供が生まれた両親の喜びとおそらく同列で、
「それぞれの血肉」から「メルエム」が生まれるというのは、
プフとユピーを「父母」に見立ててるといえると思う


ギャグや糞展開に見えるのは、
今までの少年漫画があまり扱わなかったテーマ、
「子供の誕生と父母の喜び」を登場人物に託して描いてるからで、
藤田和日郎さんはまんま出産シーン描いてたね)


しかも、原爆モドキを落とした後に「このテーマ」を持ってきたりなんてしたら、
少年漫画やバトル漫画の「お約束」をはみ出て当たり前かと思うよ


どこの世界に「爆弾が落ちて、生まれる子供」がいるのか


そんな展開のつなげ方を出来るあたり、
ホントいい意味で狂ってらしてステキだ


また「子供の生誕」というのは、
今までの冨樫漫画に存在しなかったドラマだよね


子供が生まれたあとの冨樫さんじゃないと、
描けないことを描いてるあたり「漫画」ってものに対して、
常に貪欲というか意欲のある方だよね

 

 というもの。初めて読んだときには半端ない衝撃を受けた、あの問題のシーンの理解を助けてくれた解釈です。この解釈にはかなり納得させられたことを覚えています。さらっとこういった解釈ができたらいいなーとおもいますね。


 で、久しぶりにこれを読んでいたら、ちょっと思い付いた解釈がありましたので、それとちょこっとだけ書いていきます。参考のために問題のシーンの画像をちょっとだけ張ります。

 
このシーン。

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 すでに上のコピペによって語られていることが、プフとユピーが母と見立てられる、爆弾が落ちて子供が生まれる、といったもの。伝説のシーンは、これだけで十分に説明されているとおもうのですが、このシーンにさらに付け加えたい解釈があったので、そこを重点的に語っていきます。

 
 わたしが注目したのは、プフとユピーが母に見立てたられたということです。作中で「種の頂点、女王の域」と表現されていたように、プフとユピーどちらも母なる位置づけである、という解釈で話を進めていきます。


 ここで、ハンターハンターの世界観の考察、なぜジャイロがタイトルになるほど重要視されたのか で書いたことを引用。

ハンターハンターの世界では、遊び(広義でのゲーム)を共有できるのが仲間であり、遊びを提供できるキャラクターが良いやつとなる。その視点だと、人権を奪われて悪意をまき散らす合理的な思考を持つジャイロは、遊びの天才であるゴンの対極にいる存在であるがゆえに、作中では「ゴンとジャイロが運よく出会うことがなかった」という宿敵のような描かれ方をしたということです。その意味では王、ゲンスルーなどの相手は「敵」ではない。ジャイロこそが唯一ゴンの宿敵になりうる素質を持っているキャラクターなのです。
 
 という世界観の説明。それ加えて、

 そして、ハンターハンターでは、キメラアントの女王や、キルアの母親など「母」という存在が歪んで描かれます。当初登場したミトさんがゴンがハンターになる夢を否定するように、冨樫義博がイメージする母は「遊びを否定する」存在がであるがゆえに、子となるキャラクターの目的とズレてしまい、ハンターハンターに登場する母親はいびつな存在に写ってしまう、ということです。

 これはその世界観における母という存在についてです。つまりは、母と子は本質的に相容れることがない、これがハンターハンターならではの母と子のつながりであります。

 なぜなら、子は遊ぶことをすべてにおいて優先します。そして、ハンターハンターの世界観においてはそれが肯定(認可)されてしまうので、子を思いやる(遊びを否定する)母という存在はどうしても歪な存在になってしまうのです。どうやっても母の無償の愛情は子の無限の興味には敵わないのです。 


 それを踏まえると、プフとユピーが母に見立てられるということはメルエムとの決別を意味します。
 プフとユピーが自らの血肉を分け与えてメルエムを再誕させる行為は、自分たちとメルエムを決定的に相容れない存在に変えてしまう、といった意味があったのです。


 それを示すエピソードとして、メルエムはコムギの居場所を知りたいがためにパームに土座下をしようとすることです。結局それはパームによって止められるのですが、種の尊厳をないがしろにするこの行為は、かりにプフとユピーが目撃していたら相当な衝撃のものだったと思われます。なにせ、キメラアントとしては出来損ないのパームでさえも、メルエムの行為を強く拒絶したので。さらに、メルエムが人間に何の報復をすることなく、コムギとともに死を迎える(コムギと出会ったことに生きる価値を見いだした)結末は、直属護衛団といった種の役割を他のキャラクターよりも引き受けているプフとユピーには受け入れられないものだったはずです。

 
 まあでも、メルエムが子になって、プフとユピーが母になることでの問題は表面化されませんでした。いずれにせよ、みんなすぐに貧者の薔薇の毒によって死んでしまったので、そのわずかな間に子と母のすれ違いによる悲劇は生じませんでした。運よく母が子が違えるまえに終わってしまった、ということです。



 それを踏まえると、ギャグのようなシリアスのようなあの問題のシーンは、プフとユピーが無償の愛に目覚めるという幸せの影に、その喜びは束の間でいずれは否定されてしまうという不幸が隠された、滑稽であり切実でもあるシーンだったというわけです。波乱を呼んだ過剰な演出というのも、本当に彼らが滑稽な思い違いをしていたからからこそ、ああいった風に描かれたのだと解釈しました。


 要は「えげつねぇな」ってことですね。
 母になったらもっとも不利益を被る(不幸になる)立場にいるキャラクターを、母の喜びに目覚めさせてからそのあとすぐに死なせる。これって相当にえげつねえもんだとおもいますね。せめての救いは、プフとユピーがすぐに死んでしまったので、メルエムが土下座をしようとしたり、コムギと軍犠を打てたことに生きる意味を見いだす、といった場に出会わなかったことでしょう。ホントいい意味で狂ってらしてステキだ!!