単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

世界への悪意、自分への失意、人間への信頼   RADWIMPS「狭心症」



 最近、この曲の魅力がやっと分かったかなと思いました。そのとき、俺はあらためて感動したわけなんですが、その受け取った感動をそのまま切り取って書ければいいなと思います。


狭心症/RADWIMPS




  すごい曲ですよね。皮肉、不安、苛立ちなどのアンチテーゼを、オブラートに包むことなく歌っている。それが世界への全方位に向けられていると思いきや、どうも自分に向けられているらしいってのがグッとくる。自分にナイフを突き刺してその血で描いているようなテーマです。そのせいでRADWIMPSがどんな感情を込めて歌っているかは間違うことはできないような。そんな曲をオリコンチャートに載せてくることに同世代の人間として彼らを尊敬します。
 

 
 そんな名曲を解釈していきます。

 


  野田洋次郎は人間を信じています。「オーダーメイド」に代表されるように、人間という存在は幸せになるために機能が付いている、僕たちは贅沢にも幸せに当てはまるように型作られている、と人間であることを肯定する詞を描いている。それは、だからこそ人間は幸せになれる資格を持っているんだと、未来の可能性を信じようとすることである。ただ、人間は素晴らしいというわけではないんですよね。むしろ、自分は人間はくだらないものだとすら思っている筈。それでも、野田洋二郎は人間は幸せになれるのだ、という信念を持っていると俺は思っていました。

 


 で、実際どうなの?幸せになれるの?と聞かれると、どうも現実はそうではない。なんだなんだこの世界は。せっかく、人間にはオーダーメイドの素晴らしい機能が備わっているのに、それが全然活用されていないじゃないか。せっかく、神様が人間がこの世界で生きやすいようにデザインしてくれたのに、自分たち人間がそれを台無しにしているんじゃないか。そうやって信念が、現実と擦り合わせられて、世界に転がる悪意をぶつけられて、揺らいでしまって不安になってどうしようもなくなる。いつしか、何が正しいのだろうか?という疑問が浮かぶ。




 狭心症からはそれに対する「意味がわかんねーよ」という叫びが聞こえてきます。それは二つの方向を指している。一つは、先ほど書いた人間が人間を台無しにしているこの世界。もう一つは、なんで俺はそんな世界の圧力に屈してしまうのか、という弱い自分。この歌詞って極端じゃないですか。涙腺をきってとか、目を塞いでしまおうとか、もう極端な解答を欲している。これは自分が弱いから、自分では世界と折り合いがつけられないから、いっそのこと幸せな機能もろとも壊れればいいっという嘆きだと思いました。

 つまりは、諦めの気持ちですね。自暴自棄といってもいい。心が狭い俺は俺の信念を突き通すことができないんだ、という悲しみ。それに加えて、アホみたいな仕組みを作ったり、勝手な圧力をかけてくる世界への敵意。その世界は自分でもあるということを含めて。これらの感情が絡み合って叫びたくなる衝動に変わる。

 
 

 そして、そんな諦観の中での「人間は幸せになれるんだよ」という精一杯のつぶやきが痛々しい。信じられてないじゃんと思う。もう世界への敵意と、自分への失望がごちゃごちゃになっている。そうして、ラストは悲しい結末を迎える。これが痛烈。無理矢理に答えを見繕うのではなくて一層のこともう吐き捨ててよう、というわけです。もうわけわかんねーよだったらいっそのこと全てを閉じよう、というわけなんです。


 
  
 RADWIMPSは弱虫でかっこいいという意味があるらしい。でも、この楽曲に限ってひたすらかっこいいです。こういうのを歌に出来るのは決して弱さじゃないですからね。向き合うことをしないのが弱さです。この曲の好きなところは、がむしゃらに答えを探そうとしている姿勢です。結局「分かんない」という答えになったとしても、そうやって向き合いたくない世界に目を逸らさないのは素晴らしいと思う。勇気を貰える、そんな一曲ですね。