単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

映画「けいおん!」  音楽との向き合い方についての考察、解釈



 全文ネタバレ注意です。個人的には映画「けいおん!」はネタバレしてもその面白さは変わらないと思いますが、それはあくまで個人的な意見なのでネタバレに注意を。




 
 さっそくですが本題に入ります。映画「けいおん!」のストーリーの核にあったのは、梓に音楽をプレゼントするということでした。そのシーンについて、私が書いた意見です。

 おそらく唯たちには初めての「楽しむ」だけではだめで「楽しんでもらえない」と意味がない演奏だと思います。純粋に音を楽しんできた彼女たちが、今度は気持ちを伝えるために音を鳴らす。音楽が目的ではなく手段となったのは、それこそ練習シーンはあまり描かれていませんでしたが、音楽をより深めることができたといってもいいのではと思 います。それも大切な存在である梓がいたからこそってわけなので、梓はやはり天使になるのです。


 これでは理路が分かりにくいので補足すると、要するに、唯たち先輩組が後輩の梓にプレゼントするために演奏するということは、今までの放課後ティータイムの「音楽」とは目的が異なるものであり、初めて音楽を楽しむだけでは十分ではなくなったということ。



 これまで放課後ティータイムはいくつものライブをこなしてきました。そこでの心構えは「ライブを楽しむ」ということであり、ひいてはそれが「観客を楽しませる」ことに繋がっていたのです。だから、彼女たちは自分たちの音楽を楽しむことに熱中すれば、音楽を楽しんで、その楽しさを伝えることさえもできたというわけです。楽しかったら大正解!
 
 具体例を挙げると、澪のファンを集めたお茶会で披露した「ぴゅあぴゅあはーと」は、演奏をすることで「澪が楽しんでいれば」それがプレゼントになります。そこではまだ「伝える」ことに重点は置かれていません。


 一方、映画「けいおん!」、アニメ本編のラストでは、たった一人の後輩の梓に感謝の気持ちを伝えるために演奏をします。そのとき彼女たちはこれまでにないほど緊張します。それもそのはず。なぜなら「伝える」ことを第一の目的として演奏をするのはこれが初めてだったからです。勿論、大事な後輩のためであることも緊張した理由の一つでしたが、それよりも「楽しむ」のではなく「伝える」ことを目指したからです。





 そこで、この新しい「音楽」は彼女たちにとってどういった意味を持つのか。といった意見にまで深めた考察をコメントで頂いたので紹介します。ここから本題です。コメントはproserさんから頂きました。お世話になっています。では、そのコメントの方に。


初めて楽しんでもらうために演奏した、ですか。なるほどそう考えると本当に感慨深い曲ですね。

これまで軽音部を「心地よい居場所」として考えて「楽しむための音楽」をやってきた四人が梓のために初めて楽しんでもらうため、伝えるために演奏するというのは四人で同じ大学というモラトリアムの延長を選んだことに対する一種のけじめにも思えます


高校卒業を「楽しむだけの音楽からの卒業」としてこれからの大学生活を「伝えるための音楽の始まり」として考えるから「卒業は終わりじゃない」と歌う。それを梓への歌にするというのは素晴らしい発想。


入部当初の梓は「伝えるための音楽」をやる場としての軽音部を求めていましたが、結局葛藤の末に四人同様に「居場所」として軽音部を選んだわけですが、最後の最後に梓のために「伝えるための音楽」をやることで意図してたかどうかはともかく「梓が求めていた・やって欲しかったこと」を梓の存在をきっかけにやることで間接的に「梓がやりたかった音楽の楽しさを二年間かけて先輩四人に伝えることが出来た」という意味で梓への感謝の表現として最高の形になるのかな と。


先輩後輩の別れというのは後輩が先輩から得たものへの感謝を表す方が一般的ですが、梓の場合それは居場所としての軽音部の受容という形で既に表現されています。だから最後は先輩の方が後輩から得たものを形にする、だから後輩をあえて与える側の「天使」と表現したんですね。


それが四人から「音楽を楽しむ」ことを教わった梓が「伝えるための音楽」を四人に教えた、気づかせた存在として一方的な受容でくっついた+αではない、変化を与えることができる本当の意味で対等の仲間として受け入れられた証なのかなと。
 

 主題として、音楽を「楽しむ」/「伝える」の二項対立になっていますが、もちろんはっきりとした区別があるわけではなくて、あくまでその境界線は曖昧なものです。言い換えるならば、音楽が「目的」/「手段」になるでしょうか。

 いずれにせよ、当初梓が求めていた音楽は当時の唯たちが奏でていた音楽とは違って、最後に唯たちが奏でた音楽こそが当初梓が求めていた音楽に近いのです。



 そして、そのどちらが正しいというわけではなくて、どちらの音楽も奏でることができたことで、より音楽と親しむことができたというのが感慨深いと思いました。これを彼女たちの「成長」と呼びたいところですね。それも梓という後輩がいたからこそ奏でることができたので、それゆえにあずにゃん天使!という結論になります。