単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

アニメ感想の切り口、レビューの語り口に自覚的であることの重要性


 先ほど気になったつぶやきを紹介してコメントします。


 大手アニメ感想ブログ「失われた何か」管理人さんがアニメ語りの切り口を分類したつぶやき。アニメ感想、レビューなどで参考になりそうです。
 


2011/12/18 15:06:40
アニメ語りの切り口。
①哲学・社会科学
②売上
③教養
④作画・美術・撮影・演出
⑤音響・声優
⑥スタッフ・制作会社
⑦表象
⑧物語
⑨主題
⑩キャラクター
⑪直感・直観。
この①~⑪の選び方、掛け合わせ方で語り主のポジションと方向性がわかる。


 なるほど!とおもわず唸らされた意見です。


 近年、ネットではアニメ感想ブログが雨後の筍のごとく乱立しています。twitterを中心に活動する方が増えていたといえども、それでもアニメ感想ブログの数はかなり多いように見受けられます。
 
 それらのブログを大ざっぱに分けると、考察を主体としたはてなtwitter勢、感想を主体としてトラックバックを送り合うFC2・ライブドア勢に分けられるではないでしょうか。



 しかしながら、どのブログも似たり寄ったりなブログはなくて、語り手の個性がしっかりと反映しているブログが多いようです。このように多数のアニメ感想ブログがあると、読者の方に記事を読んでもらうためには、「誰が書いたかという」独自性が求められている状況になっているので、そのため個性が生まれているのだと私は思います。

 

 もちろん他人を意識せずに自分の好きなように書くのも一興ですが、これは私だけでないと思いますが、フラットに比較されてしまうネットにおいては、必然的に立ち位置やキャラクターというのを意識してしまいがちです。

 

 そこで、つぶやきにあるように、アニメ感想語りの切り口に自覚的になることは、さらに面白い語りが出来るための参考になるのだと思いました。これらのように相対的な語り口を意識することで自らの表現の本質に気付けるようになるというわけです。



語り口に自覚的であることの重要性




 これはレビューに対しても、書評などにも通じるのではないでしょうか。


 たまには普段は触れない切り口で語ってみたり、好んで語るテーマを掘り下げてみたりしたい。もっと面白い感想を、もっと満足できる感想を書きたい。そうするためには、やはり自分の語り口に自覚的であることが必要になってくるのだと思いました。ときに語り口はそのまま作品に対する視点さえも決定するように感じます。


  
 「好きなように書くことで個性が出る」 正直、この意見には異論があります。

 文章を書くという作為があって、さらにブログのために題材を選ぶという作為がある。本来ならばブログを書くは異常なことで、文章を書くことは過剰なことです。それは「自然」なことではありません。すでに積み重ねられたら作為(恣意)があるのに、そこで好きなように書いているといっても、それはただ無自覚であるだけで何かしらの偏向が生じているのです。
 

 
 だからこそ、無自覚に固定された語り口を自覚的することで、アニメ、音楽など作品に対する視点を動かすことができるようになって、さらに個性に溢れた見応えのある感想を書けるようになるのだと思います。それゆえに自覚的であるのことは重要だと思いました。




 でも私は、こういった難しいことを考え出すと面倒くさくなって書かなくなってしまう恐れがあるので、なんだかんだで今まで通りに好きなように気ままに書くだけなのですが。ただ「こうしたらいいのでは」と想像して楽しもうという記事でした。なので多分参考にはなりません……。