単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

試行錯誤


 今回は俺という一人称で。


 ブログを続けていくうえで、一番の障壁になっているのがプライド。こんな記事を公開してもいいのだろうかという不安、これは特に問題ないのですが、こんな記事を公開したら自分ではどう見られるだろうという不安、これが問題になってきます。正直にいえば、バカなことを書くバカと思われたくない。


 恥ずかしい話なんですが、これは過剰な思い込みとは自分でも分かっています。それでもなお、付きまとう不安なのです。そもそも、俺は他人のブログを読んでいるときに、「このひとバカだな」と思うことはありません。記事にいくら見当違いなことが書いてあったからって、そこから飛躍させて書き手の知性を決めつける、なんてことはしません。ブログは書き手の頭の良し悪しを計る、そんなつまらないものでは断じてない。だったら俺はブログなんてやってません。

 しかし、どうしても気になってしまう。俺はブログをやっている動機の一つに、「認められたい」と承認を求めている節があります。そもそもは、憧れだけではじめたブログなので、自分では自分のブログのことが分からない以上、他人からの承認を求めてしまうのは自然だと思っています。なので、気になるくらいならまあいいんですよ。でも、そこに執着してしまったとき、今度は記事が書けなくなるのです。


 基本的には、何も書けなくなるってことはあり得ない。これは断定しますが、書こうと思えばいくらでも書けるはずです。それなのに書けなくなるのは、「こんなことを書く自分を認められない」という葛藤があるからです。あまりに稚拙な文章は、自分で設置したフィルターに引っかかってしまい、文章として形を成さずに沈んでいきます。書けないの内実には他にも要素があると思いますが、もっとも書かせなくするのは、フィルターの形をしたプライドの阻害によってなのです。


 しかし、最近はこれはダメだと思いました。というのも、これって要は、自分の基準のみで良いか悪いかをジャッジしているわけで、それは好ましくない状況だと思いました。そこまで俺は俺を信用していません。


 というか、俺はこうしてブログをやっているのです。記事の先に読者がいるんです。ありがたいことにコメントをくれる方だっている。だったら、とりあえず読者に判断を委ねればいいのでは、と。俺は好きなことを書いて、なんか評判が良かったときには喜んで、たとえ反応がなくても好きなこと書いて楽しんどけばいいんです。厳しいだけのプライドは解雇して、フィルターとして読者を採用する。自分のプライドより手厳しい方はそういないですので。そんで少しずつ、自分にとって面白くて、読者にとっても面白い記事が書けるようになれば最高だと思いました。


 最悪なのが、勝手に「これはダメだろうな」と決めつけて、むだにゴミ箱を肥やすことです。世の中いろんな人がいるので、本当にいろんな人がいるので、もしかしたらある一人に楽しんでもらえるかもしれない。いや、そこはもう楽しんでもらえると信じます。一人くらいはきっと読んで良かったと思ってくれる、と。


 と、自分に言い聞かすことで、どうにかブログを続けていけそうです。どうも最近はプライドが暴走してしまって、どんなことを書いても却下されていたので、これは良くないと思ってこの記事を書いた次第です。


 で、このとりのとめのない記事。いつもだったら「みんなレビューとか感想とかを見にきているだけだから公開するの辞めておこう」などと思うわけですが、そんなことは気にせず公開します。こうして好きなことを書ける場所があるってのは、けっこうありがたいことだと感じました。