単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

ハンターハンターにおける名前についての考察/レイザーとメルエムと十二支んと


 この考察のキッカケとなった記事はこちら。
 HUNTER×HUNTERは「名前」の大切さを教えてくれた偉大な作品だった件


 リンク踏むのめんどくせーって方のために説明すると、レイザーとメルエムを例に出して、「名前を呼ばれないということは存在しないことと同義」、「存在するから名前があるのではなくて、名前があるから存在する」といったように、ハンターハンターでは名前の大切さが説かれているという内容です。

 
 これをきっかけに考えたことを書きました。
 色々詰め過ぎてまとまりがないですが。

 わたしは、ハンターハンターの名前の意義というのは、「名前を呼ばれる(持つことが許される)ことにより、集団における機能としてだけの存在が、主体としての存在を承認されるようになる」と解釈しました。

 ただし、誰が名前を呼ぶのか(持つことを許すのか)というのも重要であり、集団のリーダーに等しい存在、詳しくは集団の構成員を支配する権限を持つ命令系統に属するものが、名前を呼ぶこと(持つことを許すこと)で上の解釈が成り立ります。なので、この名前を呼ぶという行為は、あくまで「集団」の中に限定される作用となります。ちなみに、この名前はニックネームでも可で、真名といった概念はここでは関係がありません。
 
 

 といったものです。解説がないと意味が分からないですよね。
 レイザー、メルエム、十二支んを例にして解説していきます。 


レイザー


 
  レイザーはジンの指揮下でグリードアイランドの運営に関わっていました。囚人として、労働力としてのレイザーは、トップであるジンからの命令を受けとり、任務を果たすというだけの存在です。おそらくは当初はそれだけの存在だったはずです。

 しかし、ジンは「頼んだぜレイザー」といった発言をすることになりま す。

 この「頼んだぜ」という言葉は、「命令」ではなくて「要請」という形式を取ります。要請であるならば、主体の判断によって放棄することも、脱線することも可能ということになり、レイザーの「殺しちまうかもしれないぜ」という返答がまさにその可能性についての指摘になっています。ジ ンはレイザーの名前を呼ぶことで、強制力を用いて「命令」するのではなくて、個人として付き合って「要請」することを選択したのです。


 面白いのは、結果として、レイザーにとっては「要請」することが「命令」することよりも大きな効果があった、というところですね。これはハンターハンターにとっては重要な要素になると思うのですが、集団においては主体を尊重する戦略こそが最大利益をもたらすという信念があるように見うけられます。協力プレイよりソロプレイだろ!といった感じで。


メルエム、キメラアント


  メルエムは、キメラアントの長として、生まれながら世界を支配するという使命を背負っていました。当初は疑いもなく使命を遂行していたのですが、コムギに名前を訊ねられてから、メルエムは動揺しはじめます。自分の配下にいる物は名前を持っている、と。そのあとにメルエムは、一度死にかけて名前を授けられて復活します。メルエムの場合は、すでに母親から名前を持つことを許されており、あとは名前を知ってそれを受け取るだけの状態でした。それからは機能としての存在を超克して、一個の生物として願望を叶えました。


  個人的には、キメラアントには初めから名前を持つことが許されていたのが印象的です。これはつまり、キメラアントいう集団では主体を認められていたということになります。なぜそうなったかというと、キメラアントの種においては、多様性があったほうが全体としての利益が増えるからです。キメラアント編の初期に登場した鳥のラモットが、自分勝手な行動の結果として念能力を手に入れることができたのが、多様性によって得られる利益の代表です。


 なので、主体を認めるという戦略が、キメラアントの生存戦略であったわけです。もちろん、メルエムが迎えた結末のように、そうすることでリスクも跳ね上がります。キメラアントの種として優良であったのは、当初はメルエムは「名前」を必要としなかった存在だったからです。唯一、王たるメルエムが主体を持たないことで(名前を必要としなかった)そのリスクを軽減させていました。戦略としては非常に優れているものだったとおもいます。コムギというイレギュラーと出会わなければ、ですが。


途中ですが補足


 で、他にも名前に関して気になったのが、旅団編で登場する占い師のネオンです。その予言の条件が「予言する対象者の名前(ペンネームなどでも可)・生年月日・血液型を書いてもらう」であり、実は必要とされる名前はペンネームでもいいのです。

  なので、ハンターハンターでの名前というのは、あくまで「機能としての存在に対応する名称だけでなく、主体が承認された存在に対応する名称」だと解釈しました。つまりは、名前を呼ばれるというのは、その使用が認められていることです。注意すべきは、名前にはそれ以上の意味はないので、名前は親から授かった神秘的なもの、というわけではありません。流星街出身の旅団には正式な名前を持っていないメンバーもいると思いますし、あくまで便宜上ってことだと。

 

十二支ん


 で、さいごに十二支んについてです。ネテロ会長が亡くなったあとの十二支んの選挙についての会合で、ジンとパリストンは名前を語っていたのに対して、他の十二支んのメンバーは「子」「寅」といったコードネームで呼び合っていました。

  この違いは、そのまま十二支んでの立ち位置の違いでもありました。
 ネテロの遺志を引き継いで自分で歩もうとするジンとパリストン、ネテロの意思を尊重 して集団としての機能をめざしたその他の十二支ん。名前の在り方が、そのまま役割につながっていました。十二支んの場合は、それぞれが集団の構成員でありながらトップでもあるので、名前を持つことを自身の意図で否定していて、意図的に機能としての存在に没頭していました。十二支んは物語が展開するにつれ て、パリストンの悪戯のおかげか、名前で呼ぶ機会が増えていったのが印象的でした。

 

まとめ


 さいごにまとめると、集団において名前が呼ばれる(持つことを許される)ということは、その個体の主体が集団において承認されるということになります。

 
 まあ常時、名前を呼ぶことがそういった意味を持つわけではないですが、ときとして名前を呼ぶことがそういった意味を持つことがあるとわたしは考えました。以上です。


  名前に関しては、やはりメルエムの物語が見事だったかと。メルエムは誕生したときに名前を授けられていたのですが、母の腹を突き破って生まれてきたメルエムはそれを知りません。いや、それを知ることが必要としない、機能としての存在だったからこそ、メルエムは王であったのです。誰にも劣ることがない能力を持った生まれながらの王は、誰よりも自由を持たない生まれながらの奴隷でもあったのです。

 しかし、コムギと出会って遊戯を通じること で、主体を問われることになります。なぜなら遊戯というのは、機能によっての行為というよりも、主体によっての行為の要素が強いからです。正確にいうならば、機能だけで遊ぶのでは物足りなくなる、といったほうが適切かもしれません。なにせ軍儀の本質は遊びであり、当のコムギが楽しんで遊んでいたからです。暇つぶしだったとしても遊戯に身を投じてしまえば、いずれは主体を問われることになってしまうのです。コムギのよ うな存在がある、というだけでもメルエムにとって驚きだったのでしょう。