武富健治「鈴木先生」11巻からお気に入りの会話を抜粋。
ヤケになった犯人が女子中学生を人質に屋上に立てこもっているときの二人の会話で、犯人の友人が「お前なにやってんだよ?」と下から声を掛けてきたというシーンから。
「下にいるのはお育ちのいい―――友だち面大好きの能天気でアホなポジティブシンキング野郎さ…!!」
「あなたはネガティブシンキング野郎なんじゃないの?」
「な、何!?」
「演劇指導で教わったよ……
一見クールでものを良く見ていると自分でも誤解しがちな虚無主義者は
自分の気に入ったそれっぽい他人の文言を神聖視して
ものごとの一面しか見ず
そんな自分の体験と実感を絶対視して葛藤から逃れているということでは
楽観主義者と同じ「妄信」と「思い込み」の住人に過ぎないって
何事も鵜呑みは危険だし
何に対して疑いの目を向ける「留保」の心は大切だけど
「そんなことがあるはずない」って感情レベルで不信感の奴隷になり下がってしまったら
それはそれでやはりやっぱり「妄信」になってしまう」
「オ、オレが葛藤したことねェって決めつけんのかよ!?」
「常に葛藤しているだけ……
でもやっぱり経験は偏ってしまう!
だから……時にはいったん疑いを完全に捨て去るテクニックも必要だって…
なぜなら迷いを捨てて一心に打ち込まなければ開かない扉も存在するから」
耳が痛い。
葛藤から逃避するために悲観主義者を気取り、自分の経験を都合よく悪い方向に解釈して、ネットや本で見つけた言葉を妄信して、ネガティブシンキング野郎に成りさがる。たとえ捨て身になったほうが戦略的に明らかに正しい場面でも、居心地のいい悲観主義を貫くためにあえて葛藤をつづける。そして、つねに葛藤していることを主張することで、自分がこうも弱いのだと主張する権利をかたくなに守ろうとする。そうやって、いつまでもネガティブシンキングのぬるま湯に浸りつづけて腐っていく。ってことでしょうか。
かなり気に入っているシーンなので紹介してみました。正直、こんなことを面とむかって言われたら相当にへこみますね。しかも、作中のように女子中学生に言われてしまった日になんかは、しばらく眠れない夜を過ごすことになるでしょう。なので、ネガティブシンキングはほどほどにせねばとおもいました。
っていいつつ、かなり手遅れっぽいんですが。
やっぱりネガティブシンキングって居心地がいいんですよね。「そんなことはあるはずがない」「あなたにとってはそうだとしても俺の身にはあるはずがない」といった具合で、すべてを片っ端から否定することによって判断コストを省けますから。それに、ときには正しくときには見当違いになる厄介な自己責任論を追い払うときにも、ひたすらネガティブな言葉を援用すれば便利ですからね。
要は楽ができる。それに「自分がクズだ」という判断を下さざるえない状況に追い込まれたときに、ネガティブシンキングによって「自分がクズだ。しかし、それは仕方ないことだ」と少しは自分を慰めることができるという良い効果だってあります。まあでも、何もしないほど、何もできないほど、ネガティブシンキングの言葉が「正しく」なるので、ただ楽をしたいときになんかは絶対の効果があるのが厄介です。そして、やっぱり怠惰な性格のせいか、楽をするために妄信することを認めてしまいます。
でもまあいつまでも妄信しているわけにはいかないよって話で。
引用した言葉にあるように、「何に対して疑いの目を向ける「留保」の心は大切だけど、「そんなことがあるはずない」って感情レベルで不信感の奴隷になり下がってしまったら、それはそれでやはりやっぱり「妄信」になってしまう」ってことなので。適度に、趣味として、ネガティブシンキングをするくらいならいいんでしょうが、それが「すべてにおいて正しい」なんて思ってしまうようになったら、それはもう超常現象を信じるかのごとく滑稽になってしまいますから。
さすがにそれは嫌なので、耳が痛い言葉にしっかりと耳を傾けなければ。