今日のライブレポを書いていてふと思ったこと。
楽しいものを楽しみつづけるためには、ときには否が応にも「強烈なもの」に対峙させられるってのはおそらく大事なことで、例えば音楽に関しては手っとり早くこのような体験ができるのがライブなのだと思いました。
ここで尊敬するあるブロガーの言葉を引用。
これは信仰というか強迫観念みたいなものなんですが、なにかをなつかしいと感じたら、もう前には進めないんじゃないか、という恐怖があるんです。俺は今後もアニメを見てマンガ読んでエロゲやって音楽を聞いていくわけで、こういう「消費する」趣味を続けていくうえで、新しいものに対する拒絶反応が出るのって、もう終わりだと思うんですよね。世界にはこれだけ作品があふれかえっているのに、その作品の山の前に立って、呆然立ち尽くすほかない。まことに貧乏性な話なんですが、それって死ぬほどもったいない感じがするんです。
感受性というものは鈍麻しない。これもまた信仰のひとつですが、鈍麻はしなくても変化はしなくなる可能性があると思っています。そのとき感受性は狭い箱のなかに閉じこもって、同じものを繰り返しなめるように楽しむことで満足しようとする。そういうありかたを否定しようとは思わないんですが、俺はそれだとダメなタイプです。なんでもいいから自分の考えていることを吐き出したい、文章にしたいと思うときに、保守的になってしまった人間ってのはろくなことしな いです。
つまんないんですよ。固定された世界は。自分がすでに固定されているのにそのことに気づかないのもいやです。
俺が新しいものを摂取するのをやめて、過去だけを見て生きるようになるときがあるとすれば、それは新しいもののなかにおもしろいものを見出せなくなったときでしょうか。そこで思いきれるかどうかはわかんないですが。
http://theinterviews.jp/mk2/1037660
今日とてつもないライブを体験して思ったのが、たとえ上記の方のように自覚的にならなくても、この「感受性が狭い箱に閉じこもる感覚」をぶっ壊してくれるのがライブの魅力でもあるのかなと。
いってみれば、引きこもりがちな感受性の救済装置としてライブがあるんじゃないかと。
ある曲を何度も繰り返して聞けば聞くほどに評価が固まっていっていつか「なつかしさ」に取り込まれてしまう。それをライブでの強烈な体験をフィードバックすることで、その評価がリセットされたり、さらなる価値を伴って更新されて、また新しさを伴って聞くことができるようになる。と。
私がなぜライブに行くのかというと、結局のところはライブ以降のため。死ぬまで聞きつづけるであろう曲をよりよく聞くために、という理由なのです。勿論、ライブそのものを楽しみたい気持ちもありますが、それ以上に普段の生活においてより楽しく悲しく聞くのが目的。
分かりやすくいえば、曲の賞味期限を伸ばすってことですね。そもそも曲の賞味期限が本当に伸びるのかは不明なんですが、少なくともしばらくは「いつもよりかは刺激的に」聞くことができますから。ブログでたまに書いている全曲レビューも同じ目的で、さらに良さを探しだそうとするために書いてますね。
で、これに関していえばライブよりも有効な体験はないのでしょうね。というか、私にはそれ以上は思い付かないので。だから、私はライブに行くんだと気付きました。そもそも曲を知らないのにライブに行くってことはまずないですから。私にとってライブが持っている意義は思っていたよりも重要かもしれません。