単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

シンチョウニ


 久しぶりにめちゃくちゃ時間をかけて記事を書きました。先ほどの記事は「慎重になろう」ということがテーマだったので、そのために私もかなり慎重になって書き進めましたね。

 たまにはこういう風に腰を据えて書くのもいいですね。私は基本的に熱があるうちに書いてすぐに載せないと、すぐに冷めたり不安になったりして取り下げてしまうので、納得するまで詰めて書いてから載せたのはめずらしい。


 私としては、このブログは「途中の行方」を投げ込む場所と決めていて、いつかすべての記事を消去するつもりでやっています。そもそもが頭が悪いのをどうにかマシにしようと奮闘しているさなかで、その証拠にブログを書いてから自分の瑕疵に気づくことが多かったりするので、あくまでブログに書くことは「途中の結論」として捉えていますね。だからといって、その後にあらためて「それは違った」と訂正して書くことは少ないので、読んでいる人にとっては私の「結論」と思ってしまうのは仕方ないと割り切っています。


 そういった姿勢でやっているせいか、このブログに寄せられる批判のほとんどが「適当なこと書くな」なんですよね。それは誤字・脱字といった基本的なことから、はては主張の瑕疵に至るまでを含めて。だいたいが正当性のある「適当なこと書くな」の指摘なので否定できないという。



 これまでは適当さに目をつむりながらブログをつづけてきたんですけど、最近では、まだ途中の結論ならばそのままで保留しておこうと思ったり、批判を恐れて慎重になるのがおっくうだったりして、もう始めから「黙っておく」ことを選ぶようになりました。これもまたブログ更新を控えている理由のひとつです。書くことが感想とかだったら気にすることはないんですけど、私は解釈とか考察といったものを含めて書くので、
 
 
 つーか、これに関してはtwitterでもうすでにやらかしているんですよ。あるテーマでつぶやいてそれをまとめたのが結構な反応(良くも悪くも)あったことがありましたが、今ではそこでつぶやいた意見とまったく違う立場であるという。
 この手の過ちは年を経るにつれて知識が体験が増えるにつれて減少するのは明らか。まあ減少するだけでなくなるわけではありません。また一周して元に戻ってくるってこともありえる。意見が変わったのが過ちではなくただ嗜好・信仰が変わったせいかもしれない。そうだとしても、私の場合には明らか思慮不足、知識不足ってことが多いので、もう少しは「黙っていよう」と思っています。ライブレポや雑記くらいにして。オフラインではそれがあまり許されないのでオンラインのときくらいはってことで。


 
 この手の問題に対して素晴らしい姿勢なのがルイさんと西京BOYさんですね。
 というか、私はこのお二人から慎重であること、留保することの大切を学びましたので。以前ならば、そういった念押しはただ冗長になって言い切りの強さを殺すだけだと思っていましたが、表現方法によってはそれすらも主張の強さとして伝えることができるのかと驚きをもって気付かされました。「と思います」「個人的には」といった言葉は冗長になるってよく聞いていたんですけど、これらの言葉だって表現によってはプラスとして機能しますからね。「自分」というサンプルを用いることで語るときは特に。少なくとも私にとっては、です。当の私はまったくもって実行できていませんが。
  


 とまあ、ここまで書いたところでこれといった結論はなかったり。
 ところで、最近になって知った「さあ、元気を出して。最悪の事態はまだこれからやってくるんだから。」という格言にとても感銘を受けました。なんだかんだどれだけ慎重になったところで、E.M.シオランの言葉で「生誕とは、一つの災厄である」とあるようにすでに災厄からは逃れられないので、せめてこれからやってくる最悪の事態に向けて元気だしていきたいです。