「負け犬だけに」
これはsyrup16gのラストライブで五十嵐隆がイントロをミスしたときの言葉で、このミスによって会場内の張り詰めた空気が和らいだというエピソードがあります。
いかにもsyrup16gらしい大好きなエピソードで、DVDでよく見るお気に入りのシーンです。
かなり久しぶりになってしまったSyrup16gの曲レビュー。「負け犬」
冒頭から強烈なフレーズですよね。もし犬に生まれたらそれでもう負けで、保健所に連れられて国家予算内で死ぬ。生まれ変わりというのは希望をもって語られることが多いのに、この負け犬ではまったくもって希望がないのですから。君に飼われてもいいという歌詞も、服従の宣言として受けってしまいます。
しかも、犬として生まれるのが不幸とかいう話ではなくて、犬に生まれたところでどうせ負け犬に違いない。という強烈な自虐の歌詞のように思えるんですよね。犬に生まれ変わったところでなにも変わらない、という諦観と、それどころか犬になったら本当に文字通りに負け犬になってしまう、という皮肉を込めて。
loserの比喩としての負け犬を本当に負ける犬を踏まえてテーマにしている強烈な内容で、疲労感が漂うダウナーなサウンドが合わさって重々しい雰囲気はかなりのもの。美しいメロディーなのですが、サビになっても重苦しさは増す一方だし、それよりもダウナーさが作用してしまうので、私にとっては鎮静剤のような一曲。もちろん劇薬。
で、この曲がキツイのは、「多分そうでしょう」と言い切ることはできないところでしょう。
もしズバリと言い切ることができたならば、それはそれで安定することができる。この「負け犬」という曲がどこまでも負け犬になってしまうのは、ほぼ確実に負け犬なのにそうであると断言することはできずに、「ねえ、どう」と尋ねてしまう不安定さ。この不安定さこそがなによりの地獄だと思う。
「負け犬」の楽曲にただよう、どんよりとした陰鬱感、じりじりとした焦燥感から、そういう中途半端さを読みとってしまいますね。これがキツい。多分、犬に生まれてもすぐに保健所に引きとられて死ぬなんて区切りのよさはなくて、ひどい生活が延々と続いた挙句にのたれ死ぬ寸前に保健所に連れていかれてしまう。そんなおぞましいイメージすら沸いてきます。そっちのほうが生々しい。
程なく 人生を
そして、そつなく人生を終えればみんな負け犬でしょう、と。
まさしく「負け犬の遠吠え」として相応しい言葉で、みんなそうたいして変わらないというわけですよ。ちょっとアウトローに生きているとか、ちょっとだけ金持ちであるとか、夢や希望を叶えたとか、それくらいの誤差ならばいつか死んで忘れられてしまうことには変わりがなくみんな負け犬だろうと。なかなか強引な歌詞ですが、どこかで納得してしまう自分がいますね。
さらに「負け犬」といいつつ、これってべつに勝ち組、負け組の話ではないと思います。そうでなくて、みんな負け犬になってしまうというのは、人生のままならなさへの抗議だったりもするのかもしれません。基本的には自虐的な意味合いが強い曲ですが、負け犬の当事者ならではの嘆きすらも込められていると感じました。結局は、歌いたかったことは「もしも僕が犬に生まれたならそれでもう負け」に尽きるような気もします。
繰り返しになりますが、結局のところは「それはどうでしょう」と曖昧のまま。
負け犬かもしれないという葛藤は死ぬまで捨てきることはできない。負け犬というレッテルを張ったり、剥がしたり、張りつけられたり、その繰りかえしに疲労しつづけていく終わらない日常。負け犬というテーマの時点で充分に強烈なんですが、それすら不安定になってしまうリアリティもあって、ほんとうに切実な曲だと思います。こういう切実な曲ってのはそれだけでもう素晴らしいと感じますが、この曲は共感できるのでいっそう大好きですね。落ち込んで落ち着ける、不思議な曲です。
歌詞
それしかもう言われなくなった