単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

「クズ」の内容物について/弱さは語りやすいが醜さは語りにくい


 脱抑制の真っ最中。数週間ぶりに眩暈がするほど酩酊しています。アルコールの血中濃度が150-250mg/dlくらいありそうです。
 最近は酒を控えていたんですよ。酒はメンタルヘルスには優しいけど金もかかるし健康にもよくないしってことで。でも、今日はもうすでに手遅れでした。こうして酩酊しているときはブログを公開するハードルがガクッと下がるのでこの機会を狙って下書きのままで永眠する予定であった記事を公開することにしました。この記事はいつごろに書いたかまったく覚えがありません。もしかすると私が書いていない可能性もあります。


 西村賢太の小説を読んでいて考えたことの簡易まとめです。「クズ」の内容物についてと、弱さは語りやすいが醜さは語りにくいについて。うまくまとまらないので箇条書きで。
 
 ・私が「自分はクズ」というとき、その内容物の大半は「自分の弱さ」が占めている。能力の低さ、意思のなさ、もろもろの脆さなど。それは同時に、私が自分を否定するときには弱さばかりに注目しているということである。

 ・弱さというのは語りやすい。私は自分がいかに弱いかについて、ブログにも書けるし人にも話すことだってできる。なぜかといえば、弱さを語っても人を不快させたり嫌悪されたりすることがあまりないと思っているから。むしろ、自分がいかに弱いかについて語るのは自己憐憫に通じる心地良さすら生まれるし、人によってはそうした自己開示を好ましいものと捉えてもらえることも多い。じっさいに私も人が自分の弱さについて語っているときに好意的に思うことは多い。

 ・ちなみに、弱さと醜さは相反するものではない。弱さや醜さは、自分という人間の内容物をものさしで分類したときの項目に過ぎない。

 ・語りやすさという点において、弱さは醜さはまったく異なってくる。私にとっての醜さというのは、ものさしで不快で嫌悪すると分類しているもので、さらにそれは他人にとっても同様の感情を引き起こすであろうという分類なので、自分の醜さを語るのは容易ではないのだ。

 ・語りやすさは受け入れやすさにも通じている。自分の弱さをテーマにした曲は話は数多くあれど、自分の醜さをテーマにした曲や話はほとんどない。と思う。語りやすさはコンテンツになりやすさにも通じている。

 ・いっとき真面目系クズという言葉が流行って、自称真面目系クズの話をよく読んでいたけど、大半が弱さについてで醜さについてはほとんど語られていなかった。クズという言葉は醜さに近いけれど、自分でクズを自称するときは遠くなる。

 ・私は無能で、意思貧弱で、脆弱な人間である。ここまではペラペラと語ることができる。しかし、そのさきの醜悪な人間である部分については途端に口をにごしてしまう。そもそも語るもんでもないって話ではあるが。

 ・そもそも自分の醜さについて自覚することは難しい。順序としては、自分のある内容物に嫌悪や不快を感じたらそれが醜いものってことになる。誰だって嫌な思いはしたくないだろうから無意識に自分の醜さから目を逸らしてしまう。それに私はたいした美意識を持ち合わせていなくて、それはつまり醜いと分類するためのものさしが貧弱ということ。そのせいで醜さについて自覚的になれていない。

 ・醜さの例としては、幽遊白書の「「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女のコに無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た快感さ。」が分かりやすいと思う。
 

 とか考えていました。ご覧の通り、考えが全然まとまってはいません。西村賢太の小説の主人公は、というか彼の本は私小説なので西村健太自身のことですが、彼はクズという名声が高い。それは醜さをあますことなく書くことができているからこそなのでしょう。まあ文章にしている以上は針小棒大ってことも多分にあるんでしょうけど、それでも上で書いたように自分の醜さについて的確に描写するってのは困難だとおもいます。そのためには観察力と文章力、そして勇気(または利益)が備わっていないと成しとげられることは非常に何時でしょう。それゆえに、私は醜さを語ることを成しとげている彼の小説に惹かれているのかもしれません。もしこれが自分の滑稽さについてだったら町田康が圧倒的だと思っています。。

 そして、私は私の醜さに自覚的でありたい、と思いつつある日々でした。「それは何のために」と聞かれると、なんとなくそうしたほういいと思っただけですけれど。