単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

下書き発掘シリーズ 「とりのとめのない痛み」


 せめてインターネット上くらいではいい感じの自分を演じたいじゃないですか。黙ることが許される、好きな時に好きなことだけに顔を出せるインターネット上では、そうでないときと違ってうまくやればいい感じの自分を演じることができるんじゃないかって。でもそんなこともなかった。

 頭の一部、主に前頭葉らへんがあまりよくないおれには、口と耳を使ったコミュニケーションでは言い間違いと聞き間違いによってうまくいかないわけですが、言葉をベースにして時間制限がないならばやりようはあると思ってしまいました。勘違い。やっぱりおれは頭が悪かった。


 花火大会いったんですけど、はやく終わらないかなーって思ってて、小さいころと比べて年を取ったおかげかはやく終わって安心しました。人生もはやく終わらないかなーって思ってて、これは自分でどうにかしないといけないわけで。努力しなければなりません。めんどうくさい。まったくめんどうです。 

 お酒を多量摂取しているとき、何かしらの枷が外れた脳は死にたいと訴えます。かなり大きな声で「死にたい、楽になりたい。もう苦しいのはいやだ」と叫び続けています。一方、おれは「その気持ち、めっちゃわかる」と同意しています。そうであるならば、部屋の段ボールにあるクレモナのもやい結びをしている12mmロープに身を任せないのはなぜなんだと不思議な気分です。嘘があるのでしょうか。本当でもできないのでしょうか。


 私たちにはやってはいけないとされることは多くありますが、おれとしては親が自殺をほのめかして子供になにかを要求する、ということはやってはいけないことランキングの上位になると思います。要求された人間は精神の大部分に致命的なダメージを受けます。親が小さい子にそれをやってしまうと、その子は頑丈な鎖を巻きつけられることになり、いくらあがいてもその鎖を取り除くことは困難です。実体験。ずっと自殺をほのめかすくらいならさっさと自殺してほしかったです。そうすれば、あるいは。というのは仮定の話で、まあ今ではその教訓にのっとっておれがそうしましょう、という話です。死にたいならば何も要求せずに死にましょう。死は死ぬまで待ってくれるので自分のタイミングで。


 好きな音楽というものは変わるもので、最近のおれは身体性がないクラブミュージックをよく聞いています。具体的には、WARP RECORDS周辺です。もう体を動かすのも面倒だし、脳にダイレクトに影響する酒や薬を接種して、寝転がってその手の音楽を聴くのに限ります。ライブハウスとかパニック発作起こしてから行くまったくなくなったし、部屋のなか一人で聞く音楽以外はノイズが多すぎて脳がちゃんと認識できません。でもたまにライブは行きます。


 二十年くらい親の天才的な洗脳の下で生きてきて、それの洗脳から三年くらい必死こいてがんばって逃げることができて、そんでその後どうしようもなくなって、いまのおれは一体どうしたいんだろう。このブログは洗脳期から、それからの逃亡期、その後の時期を共にしていました。おれは洗脳期の自分が殺したいほど憎いし、それと同時に抱きしめてやりたいほど可哀想だと思っていますが、いずれにせよその時期の自分が口にした書いた言葉が恥ずかしくてたまらない。洗脳下にいるやつにインターネットを与えてはならない。訳分からないほどの罪悪感を背負っているやつにインターネットを与えてはいけない。ネタにもクリーニングもできない染みがついて取れなくなってしまう。


 人生、どこで間違ったのかなと考えたとき、やはりあのとき親を殺さなかったことであり、奈良自宅放火母子3人殺人事件から教訓を学ばなかったことであり、つまりそれは不可能だったということです。親を殺したくてたまらなかった数年間をむだにしてしまったことは、おれの人生においての大失敗です。いまのおれはもう恨みや怒りをガソリンとして使えない。枯渇してしまった。疲れてしまった。もうどうでもいい。色々と。

 「少年の父は少年の幼児期から、父のように医師になることが唯一絶対の正しい価値や生き方であるという考えに基づいて、医師になることを強要した。少年の学校の試験の成績が実父の要求値より低い場合には、いつも以上に激しい暴力により虐待されていた」というのが、奈良自宅放火母子3人殺人事件wikipediaにあります。また、「この苦痛や恐怖や屈辱にはもう耐えられない、自分の生活環境をすべて破壊してこの状況から脱出したいという感情により、自宅に放火した」ということで、参考にするばらなおれは放火するときのガソリンはないのでその代わりに自分を破壊することでこの状況から脱出するのがよいのでしょう。

 それが良いと分かっており、そのための準備もしています。だが、まだおれは生きている。まったくもってこの状況は間違っているし、おれはやはり根性がないようです。勢いがほしい。勢いが足りない。自分で自分が望んだことをやる、というのは禁忌であったおれには難しいようです。難しい。人生はあまりにもむずかしい。