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Syrup16gの曲レビュー 「バリで死す」

 

 

coup d'Etat【reissue】

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  Syrup16gの曲レビュー 「バリで死す」


 当時、予備知識なく歌詞カードを開いたとき「あれ?やけに歌詞が多いな」と違和感を持つだけで、二重のボーカルが重ねられている仕掛けには気づきませんでした。何度か聞きなおしたとき、その全貌が分かったときは鳥肌がたったことを覚えています。

 Syrup16gは、コーラスワークを活用しているバンドですが、同一のメロディーに全く別の歌詞をうたうコーラスは「バリで死す」に唯一の試みかと。ポリフォニー的。抑揚をつけずに囁くようなボーカルと、一方、抑揚をつけて声を張りあげるボーカルと、相反する印象をもつ声が重ねられている。

 例えば、

A面

あなたどなた? 明日どうなった?
体の中 白血球無かった
クスリ切れた 看護婦さん何処だ?
頭の中 発狂寸前だ
たまに訪れる喜びもつかの間
かすかに聞こえる悪夢の調べ


B面

何か全部ナシにしねえか?
ここはしんど過ぎた
呼吸すらままならぬ
空気に覆われて
果汁は50%でいい
それ以上は過剰

 
 ただでさえ、一つのメロディーに二つの歌詞があって混乱するのに、さらに混乱を加速させる理由がどちらの歌詞も具体的であり抽象的であること。これが「片方の歌詞は具体的で、もう片方の歌詞は抽象的」って、分かりやすい統一感があれば別なのだが、そうではない。

 しいて共通点を挙げるならば、どちらの歌詞も苦痛に耐えきれずに発狂手前ってところで、しかしそれだって別種の苦痛がつづられている。不可思議な比喩が出てくれば、おもしろいワードサラダ的な言葉もあり、根底には絶望も漂っている。けんちん汁が飲みたくなる。

 何度聞きかえしていても、二つの言葉を同時に処理することはできずに片方に集中してしまうか、もはや焦点をぼやかして全体の輪郭をなぞることなってしまう。そして、全体のひとまとまりで聞くときに、「声は楽器」であることがよく分かる。五十嵐隆の楽器としてのボーカライゼーション、低く呟かれる声と高く歌いあげられる声、二つの声が風通しがいいバンドサウンドの中間域を埋め合わせます。

Today バリ島で死にたいよ
IWant バリ島で死にたいね


 嵐が吹き荒れる脳内状況をそのまま写し重ねたようなメロから、かろうじてサビでは二つの声が合流します。キャッチャーなサビと「バリ島で死にたい」とシンプルな願望のおかげで、曲を支配するカオスさはギリギリの領域で踏みとどまります。しかし歌詞全編が不穏と不可解な歌詞で埋めつくされているせいか、「バリ島で死にたい」の願望は「もし死ぬならばバリ島がいい」といった消極的態度ではなく、むしろ「いますぐにバリ島で死にたい」といった積極的態度を感じさせ、「発狂寸前」って言葉がそのままの意味に受け取ってしまう。

 死にたいよ。死にたいね。誰にもその言葉に返答しないから、自分のなかで会話をしていしまう。

 歌詞をあらためて向き合ってみても、言葉遊びから切実な感情の吐露まで取りそろえているから、「こういう曲だ」といった一義的に意味を読みとることはもはや不可能。奔流する言葉を浴びていると、そのとき自分の心情に寄り添うような言葉に注目してしまう。この試みは、写し鏡のような機能すらあるように感じます。

 そのときわたしは「ここはしんど過ぎた 呼吸すらままならぬ」、「クスリ切れた看護婦さん何処だ? 頭の中発狂寸前だ」という声に耳を惹きつけられることが多く、ときには「果汁は50%でいい それ以上は過剰」はよく分からないがそれが正しいような気がしてきたりする。

 で、

母さん俺は頑張ってるぜ
たまに思い出すんだ
見上げれば月が
ずっとついてくるんだ
 そうやって、混乱に叩きこんだあとの、最後のコーラスパートにやられてしまう。曲中、「頭の中、発狂寸前だ」と過酷な精神状態の真っただ中と歌いながら 同時に、ふと月を見あげて母に思いを寄せる日常の瞬間が描かれる。過剰なまでに言葉を詰めこんでからこのフレーズにたどり着かせる構成のせいで、意表をつかれてそのまま否が応でも感情に訴えかけてきます。 

 結果、訳が分からなくなる。心のスピードに振りまわされてしまう。そうやって翻弄されるのが案外心地よくて、繰り返し何度も聞いてしまう。

愛なき世界は今日も矛盾と重なり

絶えなき争いの途中の危険な青い空

 構成に関していえば、二つのボーカルが一つに収束する瞬間は「争いの途中の危険な青い空」のように、一時的な安寧ですぐに破綻することが分かっているから、その瞬間ですら不穏さをまとっていて、やっぱり訳が分からなくなる。

 だいたい、整理できる感情よりかは、整理しきれない感情のほうが多い。たとえば「苦しい」との感情ひとつをとっても、そこには多種多様の苦しみがあ、「苦しい」の箱にとりあえず詰め込んでとりあえずの納得をする。が、人生は際限なく悪化しつづけ、苦しみの尻尾を捕まえたとおもったら手からすり抜ける、その推移の繰り返し。

 だから「バリで死す」の訳の分からなくなる感覚は、まさしく心のスピードに振りまわされてしまう状況そのものであり、そんな日々ばっかりだから親しみが湧いてきます。


 余談。バリば舞台の作品といえば、中島らもの「水に似た感情」があります。双極性障害を抱えた主人公がクスリと真理を求めさまようほぼノンフィクションのストーリー。この作品は、中島らも躁状態抑うつ状態のなかで書いたので、「二人の人間が書いている」と説明しています。「バリで死す」の混在感と少し似ている。

 なぜ「バリで死す」なのかについて考えてみると、バリという土地柄の特徴も関係しているのかもしれない。バリの土着信仰に、良い神様と悪い神様がいて山と海にそれぞれ神様が割り振られているとがあり、そのような環境では二面性を意識してしまう。つまりは分裂の象徴としてのバリ。といっても「バリで死す」は分かりやすい二面性ではなく、「バリ」を舞台にした曲に二つの異なるボーカルを載せているだけ。とにかく奇妙な符合があるようなないような、そしてさらに訳が分からない。

 で、「バリで死す」のレビューとしていろいろ書いてきたけれど、覗きこめこむほど混乱していくので「聞く」ことにフォーカスを当てれば、メランコリックなメロディーと溶け合うふたつのボーカルがとてもいい。音の構成物としてのボーカルの魅力が詰まっている。声がいいとは、このこと。