単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

Syrup16g全曲レビューではない 「生きているよりマシさ」

  Syrup16g全曲レビューではありません。正直なところ、この文章を書いたときの記憶がないし、やたら長い上に限界オタク的文法を使ってて読みかえせなかった。しかしこんだけ長ければきっといいことが書いてあると思われる。保証はできない。「生きているよりマシさ」について前に書いたレビューはこちらで、そっちはちゃんと俺が書いた。
 
 「生きているよりマシさ」を聞くときは、どうしても外からの文脈と繋げてしまいます。それらの文脈は以下のものです

  • Syrup16gが再結成された後に初めて聞くことができた新曲(PV) 
  • インタビューで五十嵐隆が語った「また3人でスタジオに入って音を鳴らすことが楽しかった話 

 言っちゃあなんですが、「生きているよりマシさ」そう名曲ってわけではないと思います。まるで日記帳に書き殴られているような赤裸々な歌詞で、いつもの言葉遊びは詞的な魅力には乏しいです。バンドサウンドは快活なシャッフルビートで、全体でポップに聞かせてくれるはバンドアンサンブルは好調。聞かせどころのCメロの「嬉しい」ラッシュは、それまでとのコントラストによって感情が浮き彫りになっているのはグッド。死をイメージさせるネガティブなタイトルで日々のささやかな嬉しさを落とし込む、一見すると矛盾しているようでそれでこそ人間のありのまま姿が率直に感じられて好感があります。


 って書いたんですけどね、「生きているよりマシさ」めっちゃくちゃ好きなんだよー!やっぱり名曲なんだよー!ツイッターで「再レビューあったら嬉しいです」って言われて、そう言われたのが嬉しかったからいま書いてて、「よーし、まともに書くぞー!」と思って聞きながらレビューを書きはじめたけど、当時の自分の書いた記事を見かえして曲を聞いたらもう感情が溢れ出して「いい曲だー」ってなっちゃってまともに書けない。

 さあSyrup16gが再結成します。話し合い。「HURT」はSyrup16gの魅力が詰まった名曲のオンパレードでどの曲を先行カットしましょうか、ってときに「生きているよりマシさ」を選んだってのはまずグッとくる。欺瞞を暴くってのはSyrup16gの魅力だけど、この歌詞にいたっては率直すぎてそういう次元じゃない。そうやって恥ずかしいとこ含めて自分をすべて晒したうえで「嬉しい」って歌うんだもん。そりゃあもうSyrup16gのファンだからこっちも嬉しいんですよ。死んでいるほうマシな世界だけどさ、その世界だって嬉しさだってあるわけで、まさにその嬉しさのひとつが「生きているマシさ」が届いたときだったんだよなー。忘れられない。クソみたいな現実のなかでかすかに光っている温かい感情を見つけるって感じのいい曲なんだよなー。 
 
 でさ、「Syrup16gは辛い人じゃないとよさが分からない」みたいな共感のものさしで評価することは普段はあんましないようにしているんだけど、「生きているよりマシさ」の歌詞は捻りがなくどこまでもありのままだから、さすがに共感できるかどうかって大事だよね。で、私はめちゃくちゃ共感できてしまうから共感の鬼になってしまう。

 「急に話しかけられると声出ないよね」「たまに人と視線合うとキョドっちまうよね」分かる、分かりみが深い。こちとらコミュニケーション能力が未履修の人間だからさ、ほんと人と関わらないように生きているわけですよ。それこそ「波を立てずに穏やかな暮らしで 目立たないように慎ましやかにして」って感じで。でそんな風に縮こまっていると見知らぬオヤジに「卑屈と謙虚は違うぞ」とか言われてますます縮こまって、ますます挙動不審になっちゃうっていう悪循環になってね。もう死んでいる方がマシさ~。って感じで表情も意見も押し殺して日々をやりくりしているっていう。

 死人テストってのがあって行動分析学でよく使われる言葉なんだけど、意味は「死人にもできることは行動ではない」と行動の定義のための用語があって。私の日常生活は喋らない、絡まない、力合わせないって行動してなくて死人みたいなもんで、死んでいる方がマシさを人生で絶賛実践中ってわけですよ。

 そういえば、死んだ方がマシさではないんだよね、あくまで死んでいる方がマシさで、まあここでの死は比喩でしょうね。他者が自分の「生」か「死」を判断するのは、別に脳死とかの基準とはあんま関係ないし。「あなたが死んでも私のなかでは思い出が生きているから」とかよく言うからね。まあだからこそ他人の中にいる自分なんて死んだほうがマシなんだろうな。私もなんどか失踪したことあるから、他人のなかで静かに死んでいるんだろうな。よかった。


 で、特に共感しすぎてヤバくなるのが「周りを見渡せば人影はなく 憐れみが入り雑じった笑顔と共に」の部分。いやね、憐れまれるときは完全に下に見られているのもあって、かわいそーみっともねーみたいな笑顔されると超しんどいのよ。他人の心情なんでどうでもいいとはいえ、憐れるのってレッテル張りとして粘着力強すぎるし「え、俺そんなにダメダメなの? いや分かったけど……え? そんなに?」ってなるからね。まあ実際にそんなになんでね、最近はそう反応しない。好きにしてくれ。「生きているマシさ」に共感するための踏み台にしてやるから。 

 そろそろ本題に向かいます。いつもこのブログでSyrup16gの全曲レビューで恋の話になったとき、私はアセクシャルかもしれない……みたいなこと書いてるけど、まあ恋とはまで行かないけど近いことはありまして。そういうときさ、「あーこの人ともっと話たいなあ」って思っても、自分が話すってなるとやっぱ動けないよね。「もう君と話すには 俺はショボ過ぎて」って、よく考えると相手はショボいやつとは喋らないと見ているってことになるから失礼なんだけど、それを分かったうえででも俺ショボすぎて話せない!ってなるんだよ。これはもう自分への不信感が強固すぎるから。どうしようもない。どうにかしたいけど、どうすればいいか分からないよマジで。不信感、超分かる。分かる人多いでしょ。むしろなんで自信あるんだよって思うくらいだし。遺伝か? 生まれたときにランダムに割り当てられるのか? まったくなんだろうね。

 そしてそして「君と居られたのが嬉しい」「間違いだったけど嬉しい」の嬉しいパート、通称Syrup16gの対立パートに入っていく。対立パートってのは、今まで歌ってきた内容の方向性と真逆のフレーズをぶち込むことで、感情を複雑化させてよりリアルに仕上げるパートのこと。英語の短文で逆説になることもあるし、タイトルで対立概念をぶち込むこともある。話を戻すと、ここ、この嬉しいって言葉があるとないとではまるっきり違う。

 詞でいろいろ自分語りをしてきたけど、「じゃあ結局どうなのよ?」って話を振られると、「間違いでも誰かの君になっても君といられて嬉しい」って歌われる。あ、そうか、なんだかんだで嬉しかったんだって温かい気持ちになれるわけ。「会えないのはちょっと寂しい」とまた大対立パートのなかに小対立パートを入れたりするのもうまい。恋とか正しいとか間違いとかではなくて、君がいることが嬉しいってなるとそれはもう愛の領域。愛になったらそれはもう祈りになる。僕は祈る。そして引用。

愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。
舞城王太郎好き好き大好き超愛してる


 愛にも祈りにも資格はいらない。不信感も関係ない。君と話すのにはショボすぎる自分だって、君との思い出は嬉しいまま心にしまうことができる。でもさー、それ、嘘でしょ。「誰かの君になってもいい 嬉しい」はさすがに嘘だと思う。素直にそのまま受けとっていいのかな。「汚れたいだけ」の「誰とでも寝ればいい」とは話が違う。あっちはヤケクソ。こっちはシラフ。さっきは愛とかいったけど、そんだけ好きになる相手が自分から離れて誰かの君になって嬉しいことってある? 分からない……ずっと共感しつづけてきたけどこの一文だけは共感できない……。

 でもタイトルをよくよく考えてみたらつじつまが合うんだよね。それもスッキリと。「(君の記憶のなかで)生きているよりマシさ、死んでいるほうがマシさ」って考えれば、もう君のそばに自分がいることは考えていないし、それどころか君の記憶から自分がいなくなったほうがマシさっていうわけだから。そもそも君の隣に自分がいることを否定している。タイトルとサビを考慮すれば「誰かの君になってもいい 嬉しい」の共感しにくいフレーズはそこにピッタリと収まる。悲しいくらいに当てはまってしまう。

 理屈は分かったんだけど、そうなると今度は状況がいまいち分からない。
 全体から考えれば、まあ落ちぶれてしまった自分というイメージがあって、そんな自分と君はもう別世界の人間になってしまってから、そうなったら僕がいない世界で君は君のままで幸せになってくれってことだろうけど、それはストーリーとしては分かるけど、じっさいにこの感情はありえるのか? ありえたのか。あったから歌になっている。ここで必要なのは共感ではない。想像力だ。

 なんとなくわかってきた。私やっぱ生活ダメすぎるのと人間のレベルがショボすぎるんで、自分に対してどうしようもない不信感があるから、もしすてきな君がいてもそこに自分がいなくていいわってなりそう。それでも君がいるのは嬉しいし、自分はもういっそ消してほしいって気持ち分かるような気がする。あーなるほどなるほど、書いていて分かってきた。

 ってあれ? そうだとすると「生きているよりマシさ」ってめっちゃ悲しい曲じゃない? いやさ、私たちって漫画とかドラマとか社会から押し付けられて内面化している価値観あるじゃん。「好きな人と結ばれるのは幸せ」ってその最たるものでしょ。こんだけ生き方が多様になってきた現代でも蔓延している価値観じゃないですか。それと真っ向にぶつかってタダで済むわけはないしそこに葛藤がないわけがない。

 でもその葛藤を乗りこえてしまった理由は、良く考えればそれだけ君のことを愛していて無私で幸せを願うことができたからってのと、悪く考えればそれだけ自分への不信感が強すぎてそう思わざるえなかったってのがあって。どちらかといえば後者だよね。いや、後者こそが「生きているよりマシさ」なわけで、それはつまり「自分へのショボさと不信感さが本当につもりつもってどうしようもない」って悲鳴みたいなもんでしょ。そうだったら悲しい曲としかいいようがない。嬉しいといってしまうこと、それこそが悲しさを裏付けているっていう。

 ってのまあ一つの見方だから違うかもしんないけどさ、なかもう切ない曲にしか思えなくなってきた。「生きているよりマシさ」を嬉しさ全開で聞けていたときを返してくれ。でもこっちの見方のほうが私は共感してしまって、戸惑いの奥にある不信感をはね除ける力が欲しくなる。クスリはもう十分あるからそういう力が欲しい。「誰かの君になっても嬉しい」なんて言わなくて済むような力が欲しいよね。不信感、マジでどうしようもない。

 もうこれポエムですね。まあしかし、それはそれでOK。ちゃんと通院するようになってから「それはそれでOK」って思えることが多くなってこのフレーズ便利でよく使っちゃう。でも自分への不信感は相変わらずどうしようもないし、死んでいる方がマシさってかより、死んだ方がマシなんだよなー実際。いつか「君」みたいな人に出会って、でも自分への不信感のせいで誰かの君になって嬉しい状態になったときは、「生きているよりマシさ」に今度は全力で共感したいですね。……ってそんな日がおとずれるのか?