単行のカナリア

感じて想する

THE BACK HORNと勿忘草と生と死

flower_wasurenagusa

 THE BACK HORNの曲のなかには勿忘草が登場する曲が三つある。
  その三つの曲は、「コバルトブルー」、「人間」、「カナリア」。どのように勿忘草が出てくるのか見てみる。
この夜が明ける頃 俺たちは風になる 
勿忘の花びらを舞いあげて吹き抜ける
「コバルトブルー」
地球最後の日に咲いた忘れな草 裁きの鐘が響く
首吊り台の上 生まれ生きた日々を愛しく想えるかな?
「人間」
街の角 咲き乱れた勿忘草
その傷は優しさへといつか変わるだろう
カナリア
  
 勿忘草は、花期が3~5月と春に咲く花。うすく淡い青紫色や白、ピンク、黄の花を咲かせる。夏の暑さに弱く、冬の寒さには比較的強い。一部の地域では呼吸器疾患などのに効果があるとされ、民間療法で薬としても用いられる。季語は春。wikipediaより。

 3~5月といえば人生の転機が訪れる時期であり、また一年のなかで自殺者が多くなる時期だ。どれくらい違うかは、厚生労働省が公開している月別自殺者数の推移(リンク先pdf注意)で分かる。人生の転機の季節に、新たに始まる生活もあればついに終わる生活もあるわけだ。つまりは、勿忘草が狂い咲く季節はいつもより死が少しだけ身近にある。少しだけだが、その少しの差で生と死の境界線をはみだしてしまうことだってあるだろう。


 で、THE BACK HORNで勿忘草が登場する曲は期せずして死の雰囲気が濃い。「コバルトブルー」は死を明日に控えた特攻隊をテーマにしている曲。「人間」は種そのものの終末的世界を描いている曲。スケールは違えど死と隣り合っている。

 一方、「カナリア」はあまり死の匂いがないように思える。しかし、この曲の「カナリア」が、かつてカナリア一酸化炭素などの毒ガスを人間より先に察知し衰弱することを利用し、カナリアが鳴かなくなったときは危険があるといった毒ガス探知機として活用されていた過去……この意味を踏まえるならば、歌詞の「声を上げろ カナリア」はまさしく死と向かい合ってる状況と想定してもいいだろう。「生きてよかったと思えるさ いつの日か」の歌詞も、いまはまだ「生きてよかったと思えずに、死の欲求を抱えている」ってことだ。「カナリア」では歌われている生きることへの欲求の強さが死の存在を浮き彫りにしている。

 明日、自分が死ぬ確率はどれくらいだろうと考えたことがあった。毎年人は死につづけていて、そのなかで自分にとって可能性がある死といえば、交通事故と自死だろう。毎年、交通事故では大体4000人、自死では大体20000人が死んでいく。どちらの数値は減少しつづける傾向はあるが、そのことと自分のその中の1になるかもしれない可能性は別の話。日々のなか、不注意はもはやライフスタイルになっているし、希死念慮はいつだってチャンスを伺っているから、いつ集計されるデータになってもおかしくはない。

 この前、THE BACK HORNのライブに行ったときに「生きてまた会おうぜ」とMCで語っていた。熱気と熱狂が充満するステージの別れの言葉として相応しくないように思えるが、彼らが言うとなるとこのうえなく相応しい言葉に思えてしまう。THE BACK HORNはデビュー当時から現在に至るまで生と死を眼差しつづけており、その視点や温度をシフトさせながらずっと歌にしつづけている。20年間以上も間、ずっと声と楽器と言葉をもってして付き合ってきたのだ。「生きることは簡単なことではないだろう」「それでも生きていく」と何度だって死を包容し生を祝福しつづけてきたのだ。


 まあようは、THE BAKC HORNが残したきた曲の中に、人が死にやすい季節に咲く花を人が死にそうになる状況で出てくる曲があるという話。

 人は、あの日見た花の名前をまだ知らずにただ通り過ぎるだけだった花が、好きなバンドの名曲に出てくるって理由で突然愛しく美しい花だと思ってしまうときがある。おれにとっては小さく咲き乱れているだろう「勿忘草」はまさしくその花で、2015年を越えてからおれは勿忘草を見かけるたびに「今年も死なずに生きてんだな」となんとなく思うようになった。ただ、おそらくそのうち通り過ぎてしまうだろう。なんとなくはすぐに忘れてしまうから。

 そしてまた夏がやってくる。
 勿忘草は高温多湿に弱く夏までに枯れることが多く一年草扱いだけれど、種としてはじつは多年草で環境次第では夏越しができるらしいし、おれも同じく高温多湿に弱く溶けたり枯れたりなるけれど今年の夏を越したい。