単行のカナリア

スプラトゥーン3のサーモンラン全ステージ野良カンスト勢です!

THE BACK HORN「心臓が止まるまでは」を聞いたが、いい


 先日の深夜、公開されたTHE BACK HORN「心臓が止まるまでは」を聞きつづけているので感想を書きます。


 いい。昨日の夜に一度聞いて「なかなかいいのでは?」と思っていて、今日また聞いていたら「相当いいのでは?」と思えてきた。

 一言目が「ハローハロー、生きるための言葉を刻もう」。言葉を書くでも、言葉を紡ぐでもない。言葉を刻む。「心臓が止まるまでは」を最後まで聞けば、刻むの表現は、胸に刻むといった抽象的な表現ではなくて、体に刻むといった身体的な表現のほうが近いと分かる。「滾る思いは血の味だ」と、刻むべき言葉は血に染まった思いである、と。言葉たちが共鳴しあっていっそうエネルギーを帯びる。

 タイトルは「心臓が止まるまでは」で、その次につづく言葉は「全身全霊で生きたが」である。「は」と「が」が一文字だけ余分なようで、その一文字の分だけ言葉が引っかかる。口語的表現による違和感をうまく取りいれて、最後の力強く叫ばれる「叫ぼうぜ」へとつながる。一方で、「一体全体膨満感」「桃源郷は食い放題」といった奇をてらった言葉遊びもあり、根本のメッセージを飲みこみやすいようにシンプルにはしてくれなくて、そこらへんの混沌さが聞けば聞くほど味がでる。

 THE  BACK HORNは「運命開花」あたりから歌詞の口語的表現の取り入れ方が面白くなってきていて、一方でサウンドエレクトロニカを大胆に導入してアレンジ過剰になりつつある。しかし詞と山田将司の歌声の人間味によって浮つくことはない。この曲も、最初に聞いて趣向を凝らしたアレンジに面を食らったが結局はダサかっこいいなーだった。
 この「ダサさ」って要は、「これはこうなる」といった認識の枠組みからはみ出す、収まりの悪さや違和感なのかもしれない。心に引っかかってすぐには処理できないナニカが「ダサさ」の正体。だとしたらそれは彼らの個性そのものだろうし、「らしさ」を考えつづけてきた彼らに対しては誉め言葉だろう。そもそもTHE BACK HORNにスマートさなんて求めていないし。またスルメ曲と呼ばれるのも何度も聞くことで、聞いてるほうの枠組みが拡張されることで受け入れられるようになる、その過程を示しているのかもしれない。この曲もそういう要素がある。

 
 なによりいいと思ったのは、二番の「お前を傷つけたやつらが笑ってら お前は感情を出せなくなっていく まず吐きだせ 声が枯れるまで」。ここがキーフレーズだと思っていて、全身全霊で生きるためにまずやるべきこと――つまり第一歩目の決意表明を示すことでラストの心臓が止まるまでの物語に線が引かれる。
  
 この曲は最初からゴールを示している。それは「心臓が止まるまで全身全霊で生きたがと叫ぼうぜ」である。「全身全霊で生きたが」は、その後に「(生きたが)なにか文句でもあるのか?」と他人に口出させる隙を与えないよう、言葉を刻みながら生きろという。曲中ではじまりの点とおわりの点が描かれているからその間に線を引けて意味を辿りやすい。


 もしこの曲ではじめてTHE BACK HORNを聞いた人に「ではどうやって感情を吐けばいい?」と問われたら、彼らの曲を歌えばいいだと返すことができる。苛立ちも苦痛も殺意も祝福も愛も呪いも生も死もテーマにしてきたから、彼らは「まず吐きだせ」のお手本としても相応しいバンドである。例えば、今までに投げつけられた罵詈雑言を煮込んで沸騰させてからクソ野郎の脳天にプレゼントしたい、そういう感情表現もありなのだ。血まみれで生臭くても。泥だけで苦し紛れでも。
 
 あと「イキルサイノウ」って言葉が出てきて嬉しかった。「情景泥棒」でも過去の曲の文脈とつなぐような曲があって、この曲も同じく積みあげてきた曲たちのうえにTHE BACK HORNが立っていることが分かる。それが嬉しい。それにくわえて、生きる才能があるなしに関わらず、結局、自分を救えるのは自分だけってとこもいい。人は救いを勝手に見いだして勝手に救われるだけ、だったとしてもそれは救いに違いない。


 前作の「情景泥棒」につづき、「心臓が止まるまでは」ではバンドサウンド+αのα部分が増量している。これ、好き嫌いは別れると思う。例えば「舞姫」は最初はライブで演奏されていたが、アルバム収録では和楽器や手拍子などのアレンジによって賛否両論が分かれた。まあしかしライブでの同期演奏、これがライブになるとこれまた盛りあがる。そもそもバンドサウンドの魅力は周知のとおりでさらに相乗効果によって、「え?こんな盛りあがる曲だったのか?」って変化を遂げていてライブにいって驚いた。

 それにしても、ギターは歪みすぎて音が細くなっているし、手拍子は音処理によってクリック音みたいで、ピアノ的電子音が狂い弾かれているのだが、やはりTHE BACK HORNの曲。彼らの暑苦しさや泥臭さといった「ダサかっこいい」部分は、もはやバンドの遺伝子由来だからどうやっても残る。
 この曲、アレンジに凝ってサビを電子音やコーラスで着飾ったとしても、やっぱり歌謡曲や民族性があるメロディーや荒々しい歌い回しによってダサくてかっこいいのだ。しかしその部分こそが愛してやまないところなのだ。手拍子と逆回転のようなシンセサイザーがあっても、山田将司が歌ってしまえばTHE BACK HORNの原型になり、バンドが演奏すればTHE BACK HORNの曲になる。

 なんとなく、ここ最近の彼らの曲からは身体性への信頼を感じている。この曲でも抽象的な死を心臓が止まるといった身体的な言葉に還元している。生きる才能はないが心臓は動いていると、疑えない事実から始めるわけだ。生も死も身体と切り離すことができない以上は、いかに融合させてテーマにするかって話で、その点での彼らの表現は気に入っているし、彼らの曲はどこまでも人間味があるから説得力がある。アレンジメントによってバンドサウンドの肉体性は薄くなっているが、それもメロディーや言葉を含めて自分たちのらしさを信頼しているからであろうし、だからこそライブでは化けるのだろう。
 
 「心臓が止まるまでは」がリード曲になるニューアルバムがとても楽しみだ。明日朝起きたら心臓が動いてしまうのだだろうと思うくらいに信頼している。